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 どうも先ほどの会話が引っ掛かっていて、結局は姉に電話をかけていた。ぷるるる、という無機質な音を聞くのはいつ振りだろうと思いながら、自販機の横にあるベンチに腰を下ろす。あの姉の事なので余計な事を言っているという事は絶対にないと思うが、あの時の栄純君に何を言ってあんな顔をさせられるのかは、純粋に気になってしまったのだ。それに、こうやって理由が無いと年末まで連絡をしないような気がしたのだ。兄にとって最後の高校野球が終わって、姉と向かい合うことに少しだけ躊躇いを感じている自分の情けない気持ちを否定したかったのかもしれない。だから今、深く何かを考える前に姉の番号に電話をかけた。
なかなかつながらないコールは九つ目を超えようとしていて、もしかしてバイトかなと今更ながらに懸念した。もう日も落ちているのに帰宅していないのかと思うと少し心配だ。去年はそこまで遅くに返ってきている印象はなかったのだが。既に自主練を始めている部員もいるのだろう、自分は食べ終えて少ししてから動くからこの時間は動いていないがバットにボールがぶつかる音が時折耳に届いた。携帯を耳に当てている反対の耳が野球をしたがるようにその音を拾ってしまってしょうがない。体を動かしていないとどうにかなりそうなほどに押しつぶされそうな気持があったというのも多少はあった。多分、みんなそうだ。
「あ?こんなとこでどうした?」
「わ、びっくりした……電話です」
 いつの間にいたのだろう、後ろから声をかけられてびくりと肩が上がった。声で分かっていたが振り向けば倉持先輩がバットを腕で挟みながら、自主練の時だけ頭に巻いているタオルを肩にかけて自販機の前にいた。あ、ワックスで髪上げないからタオル巻いてるんだ。と思いながら会釈をすれば電話中だと思ったのだろう彼は「わり」と告げて自販機に向き合った。通話をしていた訳ではなかったので大丈夫ですよ、と言おうとした口が耳に届いた姉の声で閉じ、代わりに姉に向けての言葉にすり替わってしまった。
『はい』
「あ、もしもし?姉ちゃん?」
 ガコン、と飲み物が落ちる音に反射的にそちらに顔を向ければどうしてかボタンを押したままこちらを凝視して固まる倉持先輩。自販機の光に照らされて眼力が倍増していて正直言うとちょっと怖かった。
『うん、電話なんて珍しいね?どうかした?』
「あ、えっと……元気かなって……」
 普段通りの柔らかく、自分よりも高い声。電話を通してノイズのかかった声が直接鼓膜を叩いてくるのがなんだかくすぐったくて、そしてぶり返してきた緊張のせいで普段ならば聞かないような事を口にしていた。姉は不思議そうにしながらも『元気だよ?父さんも母さんも私も』と返してくれた、こういう対応をされるとああ姉さんだなあって思う。お陰で少し落ち着けてしまったので、倉持先輩が固まってしまった理由にも思い至り、良ければどうぞとベンチを勧めた。驚いたように目をパチクリさせた後、口パクで「いいのか?」という先輩に頷けば飲み物を取り出して静かに横に座ってきた。やはり先輩も先ほどの食堂でのやり取りを気にしていたらしい。
「……大会、来てたんだって?」
『そりゃいくよ』
「……だよね」
『どした春、春は元気ないね?』
「うん」
『あらら』
 くすくすと笑う声が空気に溶けるように耳を通過し、体に沁みこんでくるようだった。自主練の音が聞こえてくるとは言ってもそれよりも隣にある自販機の稼働音の方がするような場所だから、きっと倉持先輩にも姉の声は聞こえているだろう。飲む訳でも無く両手で缶コーヒーを遊ばせるように転がしていて温くなりそうだなとボンヤリと思った。
「栄純君に会ったって聞いた」
『うん?あ、沢村君?』
「うん」
 すごくいい子だよね、とほわほわと話す内容には素直に肯定しなかったが今まで周りにいなかったタイプだとは思う。それに懐のデカイ姉なので、姉からすれば誰だっていい人だ。
『……春、なにが聞きたいの?』
 それでもって、結構鋭い。頭の回転が速いというか、空気を読むのが抜群に上手いと言えばいいのか。兄とはごくたまにだが喧嘩をした記憶があるが、姉とのそれは一度もない。自分が見たことが無いだけでもしかしたらあるのかもしれないが兄と姉も多分ないと思う。怒ることは滅多にしない姉だが、こちらを窘めるようにぴしゃりと言葉を叩きつけてくることは結構あったりする。
『男の子でしょ、なにか言いたいことがあるなら言わないと分からないよ』
 はく、と口から空気が漏れて、それはきっと安堵の溜息だった。初めて姉と離れて暮らして、初めて姉のいない学校に通って、初めて兄からポジションをバトンされた。そして、その試合で負けて、兄の最後となってしまった。期待には答えたつもりだったし、自分の役割を果たせたとも思う。それでも、負けた。負けてしまえばそんなことは関係が無いのだ。勝てば官軍負ければ賊軍、どんな過程があったとしてもそれは揺るがない。試合になったら勝たなければ先を見ることが出来ないのが現実だ。栄純君の事を聞こうと思っていたのに、口から漏れたのはどうしようもない弱音と本音だった。
「兄貴、最後だったんだ」
『そうだね』
「一緒に甲子園行きたかったんだ、本当に」
『知ってる』
「兄貴が、泣いてた」
『うん』
「あの兄貴が」
 泣いていた。朝顔を見るたびにボロボロと涙を零し、体を震わせているのを見ていると体の奥から感情の渦を涙として絞り出しているようなそんな怖いことをしているように見えて、こちらまで涙が溢れて来そうであまり見ていたくなかった。あんなに凄い兄があんな風に人目もはばからずにぼろぼろになっている光景は酷くリアリティに欠けていて、それでもあの日から練習場の人口がごっそりと減って風通しの良くなった肌寒さはどうしようもなくリアルで。
「姉ちゃんは兄貴になにか言えた?」
 あの試合の後すぐに帰省した兄に、この人はなにか伝えたのだろうか。自分は何も言えなかった、言う資格がないと思ったし次のある自分が何を言っても虚しい思いをさせるだろうとしか思わなかった。最近は顔も見ていない。ロングティーを始めた人がいるのだろうか、金属バットの硬質な音が響くように聞こえてきてなんだか耳が痛かった。
『うーん、ちょっと怒らせた』
「え、なにしたの……」
『グローブあげた』
 予想外の言葉が聞こえて思わずは?と声が漏れた。グローブあげた、って言ったよね今。最後の大会を終えて翌日の兄に、グローブ。その意味するところを理解してぞわりと背筋に這い上がるように悪寒に似たものが走った。紛れもなくそれは興奮に似た感動で、思わず握りしめた手の平に短い爪が浅く沈むほど力が籠った。なんて乱暴な激励だろう、なんて穏やかな叱咤だろう。こんなにも姉に信頼されている兄が、誇らしくて羨ましくてなんだか泣きそうだった。
『春はさ、なにも言わなくてもあの場でちゃんとお兄ちゃんに大事な事伝えられてたよ』
「うん……」
『お兄ちゃんの最後の試合を意味あるものに出来るのは春達だけなんだからね』
 栄純君も、きっと似た言葉を与えられたんだろうな。ベンチの背もたれに体を預け、自販機の明かりで薄らと照らされている寮の壁を見上げるように顔を上げる。瞬きを意図してゆっくりとすれば、また兄が先に進んでしまっているんだということを滲むように理解できて堪らなくなる。引退してしまった三年生に出来ることは、とても少ない。言葉を向けることも感情をぶつけることも出来ない中で、残されたのは報いることだけ。そしてそれが出来るのは後輩である自分たちだけなのだ。脅迫にも似た責任の重さに、けれどホッとするような温かみを感じるのはきっと気のせいじゃない。
「はぁーあ、すごいな姉ちゃんは」
『どうしたの急に』
「栄純君も言ってたよ、姉ちゃん欲しいってさ」
 なにそれ、と笑う姉に一生かかっても敵わないだろうなあと口角が上がるのを自覚しながらバットとボールのぶつかる音を心地よく受け入れられた。



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投稿日:2018/0311
  更新日:2018/0311