センブリッジ
出勤してすぐ、耳に届いたのは園子さんの「この胸で私服だったら勘違いするって!」という言葉だった。なんだ、と思って顔を覗かせればなるほど赤井の妹。そしてその正面に、こちらに背中を向ける形でいぶきの姿が見えて驚いた。
よく考えてみれば今までポアロで会わなかったのはいぶきが梓さんのシフトに合わせているからなのではと最近思い至ったその側から、梓さんのシフトと被った今日こうして遭遇したのでその予想があっていた事が分かったが、まさか赤井の妹とまで知り合いだったとは思わなかった。
昔からどこか言葉を飾らない所があった。そんな彼女だからか自然と人に好かれ自然と人が寄ってくるようなそんな人誑しな部分があったのは知っていたが、ここ数年でその性格に拍車がかかったらしい。恐ろしいほどに登録された連絡先が増えていたのもそのせいだろう(毛利探偵に送られてきていたアドレスをハッキングして探った結果である)。
「いぶきさんも結構あるわよね」
「ッゲホ」
なんて話をしているんだと咎めたかったが出来るはずもなく、冷静を装ってエプロンを首にかける。大学までぺっちゃんこだったとか普通の声量で言うな馬鹿か。思わず紐を思いっきり引っ張り首を締めそうになったがなんとか耐えて深く息を吐く。なんでこんなに疲れなきゃならないんだと思わなくもなかったが大学からのいぶきしか知らないのでしっかりと頭に情報が刻みついてしまった。不可抗力である。店に出た時には顔を寄せあって小声で話し合っていたので流石に何を話していたのかは分からなかったが安堵したと同時に舌打ちしたい気持ちにもなったので俺も疲れているんだなと実感した。
話し掛けるか否か。安室透としていぶきに遠慮はしないと決めたが今は赤井の妹がいる。コナン君に妙に勘繰られるのも嫌だったので前回の沖矢を庇ったとかで怪我をして来た時もそこまで話しかけなかったが、これは今回もよしたほうがよさそうだと判断する。会計の時にでも話せればいいか、顔のガーゼは取れたようだし恐らくは打撲痕だったのだろうと考え、その横顔に痕跡が残っていないことを確認してほっとした。
「男運ないって?いぶきさんこんな綺麗なのにか?」
綺麗、と真正面からの褒め言葉に照れっとした声で恥じらいながら返答するいぶきにモヤッとしつつも耳を傾ける。話すのは専ら園子さんと蘭さんでそれを聞く赤井の妹は聞いていくうちに次第に険しい顔になっていった。そりゃそうだ、俺だってここじゃなきゃ同じ顔をしていた。
「前から思ってたけどいぶきさんなんであんなどーしよーもないような連中と付き合っちゃうの?」
「そんな言い方…いや、まあそうなのかな…」
「聞く限りだと相当酷いね」
「う、う〜ん…」
店内にいた他の客が会計に立ったので対応しつつも耳だけは集中して音を拾う。畜生もっと細かく出せないのか、釣銭が面倒だ。
「でも好きって言葉をくれて、それに応えたいと思ったんだから付き合うのは自然でしょ?」
「応えたいって思うんだ?」
「そりゃ思うよ」
「え〜、でも流石にあの下着くすねてたブ男には無いでしょ」
「いやいや、そりゃそういうことされてたって知った時には気持ちも離れたけど…」
「え?!ブ男??いぶきさんが?そんな風に評される奴と付き合ってたのか?」
「あれは蘭も止めたよね」
「ちょっと、ね…」
またお越しくださいと笑顔で見送れば店内はオールクリア、見事に一つのテーブルしか埋まっていない。梓さんは裏で在庫の確認をしているのでそれが終わればそのまま上がるだろうからそれまでは赤井の妹の視線だけ気にしていればいい。レジ金を確認する為にレジをあけガサガサとやりながら、決して視線はあげずに耳を向ける。というよりブ男とはどういうことだ。下着をくすねてたとか言ったか?そんな変態と付き合ってたのか本当に馬鹿か。
「ふーん…じゃあいぶきさんの中で一番酷かったのってどんな人なんだ?その下着泥棒?」
そんな赤井の妹の質問に、困ったようにえー、と誤魔化そうとするいぶき。基本的に人を悪く言えない性格なので渋るのは当然だったがそれでも女子高生三人の勢いに呑まれかかっている。いぶきという女は、酷く空気を読むことが上手かった。人の内心を敏感に感じ取り、空気に合わせて表情や声を明るくする。それが演技ではなく、たんに気を使うという心配りの延長だから質がいいのか悪いのか。良くも悪くも場の空気を読み取り相手の心を気遣ってばかりいるいぶきは、今もそうして場の空気に合わせて口を開くと言う選択肢しか残されなかったようだ。
「その人は、びっくりはしたけど…」
「じゃあ暴力男?」
「あ、あー…でもすぐ小五郎さんに助けてもらったから」
「勝手に婚姻届だしてた勘違い男もいなかった?」
「園子ちゃんよく覚えてるね…その人はお付き合いはしてなかった人」
「うっわそんな人もいたのか」
「…もしかしていぶきさん思い出すの辛いです?」
「いやいやそんなことはないよ、ほんと。色々あったなーって思ってただけで」
千円札が二枚ほどひしゃげた。やはり文面で見るのと直接話に聞くのとでは訳が違うらしい。電卓を叩きながら中間点検のレシートと現金を確認していくも電卓のボタンを危うく潰しかけたので頭で計算して合わせることにした。我ながら賢明な判断だと思う。
蘭さんの気遣いがとどめになったようで、そうとは気取られない程度に重たく口を開いたいぶきは静かな声を零した。
「一番かあ…そりゃ私も人だからやっぱり比較はしちゃうんだけど、そうだなあ」
ちらりと視線をあげる。徐に肘をついたいぶきは軽く組んだ手に顎を乗せて、少し目を伏せながら回顧の表情を浮かべていた。夕日がその横顔を甘く照らしどうにも息を潜めてしまったのは本能からだ。いま、己の存在はここにあってはならないと直感的にそう思ったのだ。
「急にね、消えちゃった人がいるの」
「消えた?」
「消えたっていうのかな…昨日までは仲良く、真面目に結婚の話しなんてしてたんだけど、今日になって突然私になんの感情も向けてくれなくなった」
遊ばせるようにアイスティーのストローをくるりと回す。ああ、その癖は変わっていない。喫茶店でコーヒーではなく紅茶を頼む好みも、変わってはいなかった。
けれどそんな風に憂う表情は見たことがなかったし、隠してはいるが辛そうに呼吸しているのも初めて見た。誤魔化してクスリと笑ってみせてはいるが、俺の目は誤魔化されてはやれなかった。
「多分ね、知らないうちに私がなにかして嫌われちゃったんだろうけど…その理由すら未だに分からないような私だからかな、一言別れようって言われて次の日には同じ部屋に住んでたのにその名残りすらなかった…のが一番かな?」
凄いよね?マジックみたい。と上手に笑ういぶきに胸を掻きむしりたくなるようなそんな痛みが走る。そんな顔をさせたくなかったはずだった。傷つけたくなかったはずで護りたかったはずだった。なのにこんなにも満身創痍でボロボロになってしまっていたいぶきを目の前にして、その全てがとても独り善がりなエゴだったのだと思い知る。
当たり前だった。だって本当になにも語らなかった、待っていてくれとも自分を忘れろとも。多くを語ろうと口を開けば余計なことを言ってしまうと確信していて別れてくれと、それしか言えなかった。なにも考えず頭を空にしてそう告げていぶきの前から消え去るのが潜入にあたる最初の俺の仕事だったのだ。今当時を振り返って思い返してもやはり最善だったと思うし、何度あの別れをやり直したとしても繰り返す自信がある。それでも軋む心臓がある、沸騰する目の奥がある、紛うことなく感情が荒れているのだから誤魔化しが効かない。
しかし、同時にどうしようもなく歓喜している心があるのだ。荒れ狂う感情の波の中でそれでもしっかりとその存在を確認できるのは痛む心臓の影で脈打つ鼓動があるからで、熱い目の奥で歪みそうになる景色があるからだ。それこそ誤魔化せないくらいに俺は嬉しかった。いぶきの中で一番でいられているものがある。一番彼女の中で傷となって残っている男が、俺なのだ。一番彼女を苦しませたのも泣かせたのも後悔させているのも、色濃く残っているのも。
そこまで考えて、綺麗にレジ金を仕舞って。ああなるほど確かにいぶきは男運がないなと心底思った。ここまで性悪な男にここまで執着されているのだから救いようがない。
悪い男には気をつけなさいよー、なんて茶化して空気を和ませたいぶきに赤井の妹がなんか、と口を開く。
「いぶきさんと僕の兄さん、相性良さそうだな」
「え?それって?」
「ああ、うん、前言った死んだ兄貴」
思わず絶叫しかけたのは言うまでもない。
いぶきと梓さんが出ていったあと、大人しく勉強を始めた高校生達だったがあ、と唐突に赤井の妹が声を発した。
「なんっかいぶきさんどっかであった気がしてたんだけど今思い出した、前痴漢から助けたんだ」
「ちょっとなにそれ?!」
「世良さん詳しく!!!」
蘭さんと園子さんの叫びに紛れ、カウンターを殴りつけた音はなんとか掻き消えた。
2017.5.29
投稿日:2017/1005
更新日:2017/1005