シルベストリス
慌てたようにポアロに向かえば梓さんに頼んだとおりいぶきを引き止めていてくれたらしく、カウンターの席に座っているのをすぐに見つけた。まろい頬を真っ白いガーゼに覆われた様を見て思っていたより大怪我だ、と一瞬息が詰まったが彼女の隣にコナン君が座っているのが見えて心配そうな顔を装った。でないと真顔になりそうだったのだ。「いぶきさん!ああ、すみません僕のせいで…!」
「え、いやいや、そんな」
「恐らく僕の依頼人の方です、最近後をつけられたり頻繁に連絡を入れてくる方が一人いまして、その方だと…ああ、言い訳ですね、女性の顔に怪我をさせるなんて」
「あ、彼女さんじゃないんですか?」
ゴリっとメンタルが削れた。それを言わせまいと早口で捲し立てたというのにこの女。きょとんとした顔をして驚いているが再三いないと言っただろうが。コナン君がほらな、と言わんばかりの顔をしていたので彼は察してくれていたらしい。身分を知っているからというハンデもあるだろうが。
「違いますよ、もう五年も独り身ですって…」
ギリギリ笑顔は引き攣らなかったと思う。責任取るとでも言えればいいのだが如何せん安室透としてもあまり特定の人物と親しくするのはよろしくない。徹夜で一部過激化していた部下の案で「公安で保護すれば」という軟禁案が頭を過ぎったが過ぎっただけだ、俺はまだ病んでない。因みにその部下のフォローのお陰で例のストーカー女の携帯の中の安室透の登録情報は改竄されたため連絡はもう来ないだろう。家はバレていないし懸念としてはここポアロにまた来られるくらいか。優秀な部下を持って俺は嬉しいが風見は暫く許す気はない。上司にまでいぶきが嫁だと認定されたんだから徹夜とは恐ろしい。当の本人は安室=降谷だと微塵も思っていない上に赤井疑惑のある沖矢に想いを寄せていやがるんだから俺の立つ瀬がない。なにが悲しくて職場でそんな相手に振り回されていると言えようか。
「それより、頬の傷は…」
「それが相手の爪が長かったみたいでこう、跡が」
梓さんが自分の頬に指で線を引くのを見ながら心底申し訳ない顔を作った。全力で作った、でないと本当に表情が抜け落ちた顔になるところだった。
「良かったら見せてもらっていいですか、さっき薬局によって色々買ってきたんです」
がさ、と持ち上げた袋の中身は外に出ていた部下が買ってきたドラッグストアの商品だ、指示は風見が勝手に出していたので甘んじて受け取ったが渡される時に「奥様大丈夫なんですか」と言われたので本当に暫く風見は許さん。さっき信号待ちの時に中身を確認してコンドームまで入っていたのを発見してあいつも徹夜明けかと職場の人間に絶望した。そしてぶっちぎり思考回路がヤバイやつMVPをそいつに贈呈した、上司に買って寄越すものじゃないだろ。勿論取り出して車の運転席の下に放ってあるがなんで信用出来るはずの部下からの貰い物にこんなに疲れなきゃならんのだともう一度絶望した。
「湿布に軟膏にガーゼに包帯に絆創膏…頭痛薬まで入ってる」
「慌ててしまって…」
頭痛薬は気が付かなかったが多分買った本人が必要な物だろう。梓さんが一つ一つをカウンターに並べるのを申し訳ないという顔で眺めているいぶきに一言謝って勝手にガーゼを剥がしにかかる。案の定慌てて大丈夫だと言い始めたが痛ましい表情を作って黙殺した。大人しくなったいぶきに構うことなくガーゼを剥がせば梓さんが言った通り、斜めに走る赤い線があった。腫れてはいないが全体的に左頬が赤いのは結構な力で叩かれたからだろう。思わぬ巻き込み方をしてしまったのは本心から悪いと思っていたのもあって「すみません」と零した声は作った以上に弱々しかった。
「大丈夫ですよ、ね?そんな気にしないでください」
「ねぇ安室さん、どうしてあの人はいぶきさんを彼女だって勘違いしたのかな」
いぶきの向こう側に座っていたコナン君がひょこりと顔を出してそう問いかけてきた。うーん、と悩む振りをしながら軟膏を手に取り蓋を開ける。親指にそれを出しながら多分、と前置きをしてほぼ確定している予想を口にした。
「この前、いぶきさんにお願いしてショッピングモールに二人で行ったんだよ、探偵の仕事でね。都合上カップルの振りをした方がやりやすかったからそう振舞っていたんだけど…多分彼女も居たんだろうね」
「それでいぶきさんの呼び方が変わってたんだね!」
目敏い。本人なんてあの日の帰りにはもう安室さん呼びに戻った上にこちらの呼び方の変化に今でも気がついてなかったというのに。「他の人もそう呼んでいるのもあって、しっくりきてね」と予め用意していた言い訳を答えればふーん、と意味深な相槌を打たれた。賢いこの子の事だからどうして探偵業務を手伝う流れになったのかは言わなくても分かってくれるだろう。探偵としていぶきに降りかかるであろうものの露払いを申し出た場にこの子も居たんだから。
失礼、ともう一度断っていぶきの頬に顔を寄せる。軟膏の付いていない反対の手で顎を掴んでやってもちっとも顔を赤らめないいぶきにプライドを折られそうになりつつも、白い軟膏を赤い線にそって伸ばす。赤い線を塗るように上から頬を白く汚しているとどうにもそういう方向に考えがいったが顔には微塵も出さなかった。これは車の運転席のしたにあるアレが原因だ、不可抗力である。俺は悪くない。
丁寧なくらい軟膏を塗り、満足してから上からガーゼで覆う。その上から刺激性の薄い湿布を切ってから貼って終わりを告げれば梓さんが感心したように「やっぱり手早いですね」と感想を述べた。家で変えるようにと軟膏とガーゼ、湿布を分けて渡せば受け取れないと言い始めたのでまた渾身の辛い顔をすればいぶきは大人しく受け取った。
そのうち詐欺に引っかかりそうなチョロさに少し心配になった。
2017.6.1
投稿日:2017/1005
更新日:2017/1005