天界の裁判
例のいぶきに男の影事件の真相が赤井の妹だと知った時の苛立ちは本当に大変なものだった。兄弟そろって俺を振りまわしてくるのかと思ったと同時どうしようもなくホッとしてしまったのも事実で、それがまた腹がだたしい。そしてその可能性を全く考えなかった自分にまた腹が立った。なんだこの展開、ギャグかよとスーパーの隅で落ち込みそうになった。よく考えればあのシャツが沖矢のサイズではなかったという事だけはしっかり認識していたが男性ものにしては小さかったことまで頭が回らなかった。赤井の妹がいぶきの家に招かれていたという事はシャツに夕飯を零しそれをいぶきが洗濯したとかそんなところだろう。そのあといぶきの携帯が沖矢からの着信を知らせてきたときにああそう言えばあいつの着信を変えてやったなと思い出したが、本当にすっかり忘れていた。いつだったかいぶきを車に乗せて送った時に携帯を忘れていった時にすぐに呼び留めずに少し弄ってから返したんだったか。結構な時間そのままに放置されていた着信音に多少溜飲が下った。ざまあみろ赤井、これだけ時間が経っていればきっといぶきはお前のことをサメだと思い始めているだろう。しかし赤井の妹に弁当まで用意しているというその成り行きが全く分からずもやもやとさせられ、お陰で一睡もせず提出資料を書き上げた。徹夜明けと妙な男を家に連れ込んでいるという訳ではなかった事実のお陰か少しハイになっていたらしい俺は昼を指す時計を見てそうだいぶきを昼に誘おうと某都市にいこうのようなフレーズで殆ど深く考えずに安易に電話をかけていた。
「安室です、いま大丈夫ですか?」
『はい、大丈夫です、はい、なんとか』
「なにかありました?」
妙な言い方をすると顔を顰めて姿勢を正せば電話口から聞こえる声が何やら言いあぐねるように唸る。けれど無言で早く言えと促せばすごすごといぶきは口を開いた。
『今日不思議な事があって…』
「今ご自宅ですよね、伺ってもいいですか?」
『え!あ、安室さん用事は…』
「いぶきさんとお昼でも食べられたらいいなーと思っていました」
『あ、え、はあ…』
返事を聞かずに向かいますねと言って通話を切り、急いで支度をする。あいつが自分で不思議な事だと気が付けるほどという事はよっぽどだ、いっそ天変地異だ。外に出て取りあえず世界が滅んでいなくて安心した。法定速度ギリギリで車を走らせていぶきの家の前に停め、走って彼女の部屋まで向かう。玄関よし、周囲に怪しい影もなし、ポストに妙なものも入っていない。異変はない、ように見える。
「安室さん速いですね…びっくりしました…」
「何事かと心配で…」
時計を確認して車で20分かかる距離を5分と少ししかかかっていないのを見てこれは確かに早いと思われてもしょうがないと思った。だがこの平和ボケと言われても可笑しくないくらいに生き物としての危機察知が下手くそなこいつがなにか可笑しいというくらいなのだからよっぽどなのだ、それくらい急いだって罰は当たらないだろう。どうぞ、と中に入る様にと扉を大きく開けてくれるところからもそれが分かる。男をそうやすやすと家に上げるな。
そういえばこいつの家に入るのは初めてだな、と靴を脱いでから気が付いた。「鍵閉めてもらってもいいですか」と部屋の奥からそう言ってくるいぶきに舌打ちが漏れそうになったが爽やかな声で承知を知らせる。俺が男だって分かってるのかあいつは、それを鍵を閉めろだと、自分から密室を望むのかそうかこれはそう言うことか?俺は誘われているのかいやいやいや、そうじゃないだろう落ち着けと言い聞かせながらしっかりと施錠しそのガチャリとした音に勝手に喉が上下した。いや、落ち着け俺。財布に入れてあっただろうかなんて考えていないったらない。別の事を考えようと靴を揃えて、密室と言えばそう言えば赤井とも、と思い出して急速に熱がぐつぐつと煮え立った。明らかに考えることを間違えた、チョイスミスである。お陰でよからぬ考えが飛んでいったのがまた虚しい。いぶきの部屋は質素に纏められていてこいつらしさがにじみ出ていた。昔からシンプルなものを好んでいたが今でもそれは変わらないらしい。残念ながら家具の全てに見覚えはなかったが。何か一つくらい残しておけよと思ったがまあこの部屋にはサイズ的に合わなかったのかと無理やり納得した。でないとちょっと虚しい。どうぞと勧められるままにソファーに座れば飲み物を用意してくれているらしいいぶきが「お茶とコーヒーと紅茶、どれがいいですか?」と顔だけひょっこり覗かせて聞いてきたのでなんとか表情に出さずに紅茶と答えた。なんだあれ、なんだあの生き物。俺は試されているのか。思わず拳を握りしめすぎたせいで爪が割れるところだった。
「それで、なにがあったんですか?」
「これ、なんですけど…今日届いて」
そうしていぶきが机の下から引っ張ってきたのはやけに重量のありそうな段ボール。重そうなそれにすかさず立ち上がり代わりに持ってやれば笑顔で礼を言われたがまず頼ってほしい。それにしても宅配物か、嫌な予感しかしない。机に乗せるのも渋られて床に置いて自身も床に腰を下ろし一言断って段ボールを開けた。しかし、構えていたような恐ろしいものは入っておらず中身は何の変哲もない化粧品やらのブランド品ばかり。同封されていた文書にはどうやら懸賞であたりこれが届けられたらしい旨が記載されているが、どうやらいぶきはそれに全く覚えがないらしい。確かに妙だがブランド名を見て少しピンとくるものがあった俺はなんとなくだが送り主を察してこれらが安全であることを確信した。
「もしかしたらメールで応募していたのかもしれないですよ?それだったらいぶきさん気が付かないでしょうし…」
「なるほど……でもこんなに高価なもの、どうしていいか分からなくて」
「使ったらいいんじゃないでしょうか、きっと送ってきた方もそうして欲しいと思いますよ」
「え、いや…そうですかね…うーん…」
そう言ってもまだ悶々としているいぶきにまあこういう欲がない所もいいところだとは思うがあまりにも無欲過ぎて心配になってくるなとこっそりと顔を顰めた。自身が損をした時には対して気にしない癖にこういう時だけ異常事態だと頼ってくるあたりからしてもうこいつダメだ。俺がなんとかしないと。
赤井の身内を洗ったときに母方の性が世良であることも分かっていたし、母親がイギリスの人間なのも知っていた。そしてその母親が大手化粧品会社に縁のある出生だという事も知っていたのでそう言うことだろう。最近赤井の妹の飯の面倒を見ていると言っていたし十中八九。回りくどいがいぶきに対して真っ向から渡しても倍返しされると思ったんだろうことが察せられた。その後もなんどか言い含め、こういったところは返品される方が困るだろうという言い分が一番効果的だったらしくいぶきはそれを受け取ることにしたらしい。ならば早々にこの心臓に悪い空間から出てランチにでも、と思ったのだが、それと…と神妙な顔をするいぶきにすかさず正座した。
「今日銀行に行って通帳を記載したんですけど…なぜか昨日身に覚えのないお金が振り込まれていて…」
「……えっと、はい?」
今一つ理解が及ばず聞き返せば通帳をそのまま渡されたのでそうじゃないと思わずソファーに突っ伏した。そうじゃない、いやそうなんだけどそうじゃないというか…。簡単にこういうものを人に渡すなと説教したいところだが耐えて体を起こしてそれを見れば、いぶきの言う通り確かに昨日の昼に30万も入金されている。どうやら別の銀行からの振り込みらしいがそれ以外特に記載はない。確かにこれは可笑しいが、一昨日いぶきの携帯に沖矢から電話がかかってきたことを考えるとまあ、これもそれの一つだろう。その証拠にこの銀行のATMは工藤邸から一番近い場所にあるし、この銀行に沖矢名義で口座があることも知っている。しかしあまりにも生々しいしこれではいぶきが不審に思っても可笑しくないというのにあの男。もう少し考えられなかったのか。
「銀行員の人に聞けばいいんでしょうか…」
「え、あ、あぁ……ですが振込先が別の銀行なので恐らく相手は分からないかと」
「そうなんですか…」
「…多分、普段あなたに救われている誰かが御礼のつもりで入金したんじゃないでしょうか」
「ええ?」
「人からの感謝を素直に受け取ることも、必要ですよいぶきさん」
言い聞かせるように普段から彼女に強く思っていたことを言葉に乗せる。もうちょっと周囲に甘えることを覚えた方が良いと常から思っていたのだが、本当にここ数年で酷くなってしまったように思う。悪癖とまでは思わないが何かあればすぐに御礼、お返しと品を持っていったり贈り物をしたり。良い心がけだとは思うが、此方が単に気持ちだけで贈ったものでも律儀に倍にかえされてしまっては心苦しいのも確か。もう少しその当たりを素直に受け取ればいいものを。例え赤井兄弟からのそれだとしても、それは同じだ。あまりいい気はしないが。正直全額突っ返したい。
「…わかりました」
先ほどよりもずっと納得しがたかったのだろう。長い沈黙の後やっとこくりと頷いたいぶきは恐らくあの金に手は付けない。そのことに気が付いて沖矢がどうするか知ったことではないがもう関わってくるなと言うのが本音である。
解決したとばかりに声色を変えてランチに行こうといぶきの手を取って立ち上がる。あまり長居したくない、でないとちょっと危ない、色々。こんな徹夜明けで昼間から理性試しなど怖くて出来るもんじゃない。
「何が良いです?イタリアン?和食?中華もいいですね、美味しいところを知っているのでどこでも連れていきますよ?」
「…それじゃあ、安室さんのおススメで」
握った手を軽く遊ぶように振り、茶目っ気を混ぜて笑ういぶきに慌てて外に出たのは言うまでもない。こいつのこういう所怖い、本当に。
2017.6.25
投稿日:2017/1005
更新日:2017/1005