トロイヤの攻防3
目の前にいるのが誰なのか、分からなくなった。確かに見覚えのある眼鏡をかけた男性が、目の前の彼を「降谷さん」と呼んだ。そこから全てが曖昧で自身を取り巻く環境全てが虚空に思えて怖かった。昔、私の前からいなくなってしまったあの人は私の中の現実から切り離されてしまったのだ。もう二度と逢えないのだろうという予感が勝手に私の中の現実からあの人を弾き出した。あの人は私にとってとても遠くて、手の届かないどこかに行ってしまったのだ。そこはもしかしたら物語りの中かもしれない、死者の世界かもしれない、とにかくそんなどうしようもなく現実から離れた場所に消えてしまった。だから突然私の現実がなにかに侵されてふやけてしまったのだ。
あの人は、こんな顔だっただろうか。思い出せるのだけれどもそれが本当なのかわからない。一つ一つあの人を形作るものは思い出せる。なのにそれが全体像となって綺麗にまとまらない。顔が、わからない。どうしてだろう、安室さんにあの人のことを聞かれた時はきちんと言葉に出来ていたはずなのに。ピースがばらけてしまったかのようにそれらが散乱して頭の中で暴れている。
「なあ、いぶき」
「あむろ、さん」
「ちがう、安室じゃない」
ふらふら漂う視線を捕まえるように顔を寄せられる。名前を呼ばれ、何かがコロリと転がった気がしたのに彼の名前を呼んだら違うのだと言われる。訳が分からなくてもう嫌で、でもそれを目の前の彼は許してくれない。握られた手はお互いの温度と汗で少しジワリとしている、それが間違いなく現実なのだと私を引きずり出してきて離して欲しくなるけれど、やっぱり許してくれないようでより強く握られただけだった。
「いぶき」
コロリ、また、何かが。
ふと、目の前の彼が俯かせていた顔を上げる。伏せていた瞼が持ち上がり、なかから海が覗いて思わず間抜けに「あ」と声が漏れた。透けるような海、溶けるような空。形容しがたいその色は確かに私の記憶の中に埋もれてそれでも足掻くかのように輝いていた。
その目は、色は知っていた、覚えていた。鮮烈に存在を主張しここだと訴えるように転がったそれがキラキラと瞬く。そしてそれが私の何処からか転がってきたその綺麗な何かと重なった。ガラス玉のようなそれはけれど決してそんなありふれたものでは無い。見たこともないような痛いくらいの光を放つ何かがかちりと彼の目に当てはまって、現実が新たに形成されていく。
その目はまっすぐと何かを見据えていた、何処に向けられていたのかは分からなかったけれどその先に彼の大切な物があるのは知っていた。
それが、いま私に向けられている。
「いぶき…?」
「…ふる、やさん…?」
「!」
「ほんとに…?」
うそ、なんでと勝手に動く口を包むように顔を両手で覆われる。大きな、節くれだつ手だ。普段は少し乾燥しているくらいなのに今は私の体温と混じってなのかしっとりと吸い付くように触れる。
海を閉じ込めたその瞼がうっとりと細められるのを目の当たりにしてぞくりと背筋に走るものがあった。間違いなく目の前のこの人は、今私の正面に存在していて、そして私をまっすぐと射抜くように見つめている。
「悪かった…本当に…」
「なんで…」
「あのまま俺と一緒にいたら巻き込むと…いや、ただ俺が怖くて逃げただけだ…本当に悪かった」
「巻き込む…?」
その言葉を必死に考える私を咎めるように額を寄せられて息を詰める。甘えるように額を擦り合わせ、安堵の溜息が私の唇を叩く。そんな恥ずかしい距離に慌てて離れるように身を捩ればその青が不安そうに揺れて、けれど流されてはいけないとじっと見つめ返した。
投稿日:2017/1005
更新日:2017/1005