トロイヤの攻防3

当時と同じようにいぶきに名を呼ばれて全てが報われたようなそんな心地に陥った。どっと肩から力が抜けて、気を張っていないとなにかが決壊してしまいそうな気までした。やっと、やっといぶきが俺を見てくれたのだ。過去の亡霊としてこいつの中で輪郭を失いかけていた降谷零が、いまここで息をしているのだと認めてくれた。その心地よさはある種泣きたくなるほどの安堵を齎し、きちんと全てを話していないのにも関わらずほっとしてしまった。だから赴くままに唇を寄せて、そこから逃げられた時に頭が働かなかった。


「巻き込むってどういうこと、ですか」


険しい顔で真剣な眼差しを向けられて思わず怯んだ。普段の柔らかい彼女の表情は形を潜め、暖かさの抜けた声が震えている。途端に我に帰るように距離をとり、それでもいぶきの手だけは捕まえてもう一度溜息を吐いた。
そうだ、ここからが本題なのだ。


「仕事で偽名を使うことになって…そばに居る人間も危険に晒す可能性が高かった」


「仕事って探偵の、ではない…よね」


そういえば昔はこんな話し方だったなと懐かしむ暇もなく慎重に頷いて肯定を示す。硬いいぶきの表情にゴクリと喉が鳴ったのは明らかに緊張からだ。笑って許してくれるいぶきしか想像出来なかったくせに、こんな時になって酷く明確な恐怖に襲われていた。もし許されなかったら、離れると言われたら。どんな罵声だろうが受けられるけれどもし彼女の心が離れてしまったら、俺はどうしたらいいのだ。喉が、カラカラと干からびる。


「…警察官だ」


「警察…」


「所属している場所の都合上、警官であることも言えなかった…悪い」


断罪を待つように首を垂れる。いつ首を落とす刃物が落ちてきてもいいように目を瞑り無意識に眉間に力が入る。時計の針の音が煩いくらいの沈黙はきっちり三十秒続き、呼吸が苦しくなってくる。いぶきの手を握っている手に力を入れてしまわないように固めるように意識してジッと待った。


「そうだったんだ」


ぽろ、と項あたりに落ちてきたその声はとても小さくもう少し離れていたら聞き逃してしまうくらい声としてなり損なっていた。顔を上げるようにと繋がっている手をく、と引かれる。促されるままに情けないであろう顔を上げれば、目が合った途端くしゃりと歪むいぶきの顔。同時に心臓が握り潰されるように痛んでやめてくれと叫びたくなった。そんな顔をさせたいわけじゃなかった、穏やかに笑っていて欲しかった筈だ。なのにどうしようもなく俺のせいでこんな悲しい顔をさせてしまっていて苦しくてどうにかなってしまいそうだった。


「ごめんなさい」


「なんでお前が…」


「別れよう」


思わず、反射的にいぶきの手を引っ張っていた。つんのめるようにソファーから落ちてきたいぶきを容赦なく腕の中に閉じ込めて顔を見られない様に細い肩に顔を埋める。ばくばくと煩い心臓に誤魔化せないくらい歪む顔。力加減など全くできなかったせいでいぶきの細い体が悲鳴を上げているのが分かったがそれでもちっとも緩めることができなかった。
本当に彼女の事を思うのならば彼女の望むようにしてやるのが正しいのではないか。ここまでずっと俺の我儘で傷つけてきた、今更こいつを幸せにしてやるなんて大それたことも言えそうにない。引き留められる要素が一つもないのだ。かける言葉がなにも出てこなくてはくはくと空気だけが口から漏れる。少しでも間違えたことを言えば抱きしめているこの腕からいぶきが消えてしまうのだと思ってしまって怖かった。俺の胸元で縮こまっているいぶきの両手はすっかりそこに挟まれてしまって俺の背中に回ることも無い。恐らく肺も圧迫されているのだろう、少し苦し気な呼吸音が耳元で落とされるが緩める気はやはり起きなかった。


「私ね、一度も」


「…」


「居なくなった降谷さんの事、心配なんてしなかったの」


「…、」


「自分の事しか考えてなかった」


そんなことどうだっていいだろう。それが当たり前だしそうするように俺がしたのだ。なのにそれをいぶきは声が震えるほどに後悔していた。まるで心底自分が憎くて恐ろしい生き物なのだと言うように訴えるその言葉は次々といぶき自身に突き刺さっていく。それが嫌で一層抱え込むように抱き込めば流石に苦しかったのか言葉が止まった。どこまでこいつは他人の事ばかりを考えているんだろうか。少しくらい、自分の事を考えてほしい。もっと我儘に願いを口にしてほしい。そんな事を言われてしまっては自分の願いばかりの俺がいかに浅ましくて愚かなのか浮き彫りになってしまって辛い。苦しくて話せなくなっているいぶきをいいことに今度は俺が言葉を落とす。いぶきの肩に吸い込ませるように囁く言葉がどうか、届けと。


「……別れたいのか」


「…」


「俺はいぶきに怒鳴られたって殴られたっていいと思ってる、でも許してほしいと勝手だけど思ってる」


「…っ」


「怒りも悲しんでもくれないのか」


抵抗するようにいぶきが体を捩る。それでもそんなのあってないようなくらいに弱い力で簡単に抑え込めるその小さな抵抗すら全身で殺して抑え込む。怒るのならば一生かけて償おう、毎日謝罪を告げたっていい。悲しんでくれるのならばどんなにかかってもそれを上回る喜びを与えよう、どうかチャンスが欲しいのだと頼みながらそうじゃないなとはっと笑いが漏れた。


「……いや、許してくれなくてもいい」


「な、に」


「でも一緒に居てほしい」


びくりといぶきの体がはねた。驚いたように上下した肩が俺の頭もぐっと押したのでその力に逆らうことなくゆっくりと頭を上げてぴったりと頬を寄せた。恨まれていたっていい、嫌われていたっていいと思ってしまった。こいつの気持ちをすべて無視してそれでも一緒に居たいのだと訴える。自分がこんなに情けないとは思ってもいなかった。


「居なくなられると、困る」


掠れた声は思っていた以上に弱々しかった。まるで縋るようにいぶきに抱き付いて、こんな男大抵の女は嫌がるだろうななんて思った。それでも今いぶきには本心しか語りたくなかった。紛れもない降谷零と言う情けない男の本心だ。埃を被るほどにずっとしまい込まれていて奥に押しやっていたそれは年季が入ったせいで薄汚れていてとても綺麗とは言い難い。それをまっさらないぶきの前に突き出して全身全霊でぶつかった。
ぽた、と肩に落ちるものがあった。それが何かと思い至った時には弾かれるようにいぶきをきつい拘束から解放して顔が見える位置まで自分の身を引いた。慌てていぶきが両手で顔を覆ったけれどそれより先に目に飛び込んできた光景は、予想通りぽろぽろと両目から雫を溢れさせていたいぶきの姿だった。さあ、と血の気が引いていく。


「わ、悪い泣かせるつもりは…」


「……もう」


片手で目元を隠したまま、もう片方の手が空をふらりと彷徨った。茫然とそれを目で追っていれば信じられないことにその手は俺の頬にぺた、と触れて一度ぱちりと頬を弾いた。とても叩かれたなんて強さじゃなかったけれど衝撃は十分すぎるくらいで驚いて言葉が吹っ飛んでしまう。
いま、俺の事叩いたのか、こいつが。
ぐい、と一度目元を乱暴に拭ったいぶきの眼がしっかりと此方を見てくる。どくりと泡立った全身に訳もなく驚いてしまって、眼が逸らせなくなる。頬を叩いたその手がむに、と頬を抓んできたせいで両目を見開いて何事かと考えようとして失敗した。頭が全く働かないのだ。くしゃくしゃの下手くそな笑顔で笑うこいつのその顔に完全に見惚れてしまったのだ。


「これで、許す」


そんな甘すぎる判決に暫し茫然として、意味をじわじわと理解して頬が緩む。今度こそ優しく包むように抱きしめて声をあげて笑えば腕の中のいぶきも楽しそうに笑ってくれた。



2017.6.10

どうも情けない安室さんになってしまいました…
きっとこの後嬉々として「公安警察でな」と暴露して逃げられない様に囲っていくと思う。


 - return - 

投稿日:2017/1005
  更新日:2017/1005