その血はあなた
「え…安室さん?」
「突然すみません…いま、大丈夫ですか?」
「は、はい…あ、どうぞ」
戸惑いながらも家の中へと入るように促してくれたいぶきの相変わらずの無防備さに少し笑いながら二度目となるいぶきの部屋に足を踏み入れる。まだ男の影すらないこいつだけの部屋。そこに過去の俺の残骸すら残っていないことが、こいつの強さの証であるような気がしてきて言い表し難い感情に襲われた。緊張を前面に表しながらもお茶を用意してくれたいぶきに礼を言いつつ、改めて顔色を窺う。入院するきっかけとなった事件の時に額に怪我をしていたようだったが髪に隠れる位置にあるのか傷跡は見えない。また少し痩せたか、元から白かった肌が病院生活のせいか更に白くなってしまったように思える。
「お見舞い、いけなくてすみません」
「え?あ、ああ…全然、そんな」
「…傷、残りましたか」
「、大丈夫です」
困ったように、それでもそれを感じさせないような柔らかい笑みを向けられてこいつは変わらないなと思い知らされた。変わらずにお人好しで、空気を読むのが上手くて、それでもって自分を殺すのが誰よりも上手だ。こんなに自分の事を殺して、押し込めて、なんて損な生き方だろうと思うけれどそれがいぶきの美徳なのだともおもう。
「残念です」
「…へ?」
「傷が残っていたら、責任を取れたのに」
机を挟んで座っているいぶきは俺の言葉を理解できていないのだろう。ポカンとした顔をして首が少しだけ傾いている。分かりやすいほどに「どういうこと?」という顔をしていてまた笑いが零れてしまった。出してくれたお茶を横に避けて机に乗り出すようにしていぶきに手を伸ばす。伸びる俺の手を見つめるだけで避けようともしないいぶきに俺がどれだけ安堵しているのかこいつはきっと永遠に知ることはないのだろう。それと同時に誰に対しても等しく接するこいつの残酷さに傷つけられている男が大勢いたのであろうことも、きっと。前髪をさらりと上に持ち上げれば額の右上に小さな絆創膏が張ってあってああこれかとそこを指の背中でそっとなぞる。それでも背中を反らすどころか相変わらずポカンとした顔でこちらを見上げてくるいぶきに今度こそハッキリと笑みが出てしまった。
「僕は、貴方が特別です」
誤魔化しきれないくらいには、掻き乱されてしまうくらいには。どうあっても一番にはしてやれない、今後何があったとしてもそれは変わらないだろう。それでも狡い俺はお前の一番にさせてほしいんだよ。お前の唯一にしてほしくて、他の誰かがその場に居座ることを許せそうにないんだよ。我儘で面倒で頑固なんだからしょうがないよな、とまた笑い声が聞こえた。背中を押すようなその言葉になんて都合の良い幻聴だろうと俺まで笑ってしまいそうだった。多分俺は今日こうやっていぶきに告げたことを後悔する。それでも他と同じように、手が届かない場所で勝手にいなくなってしまうよりはずっと耐えられるとそう思ったのだ。
「もう、」
あんな思いは。そう口走りそうになった言葉を飲み込んで、するりといぶきの頬を撫でるように額から指を滑らせれば柔らかい存在なんだと改めて痛感させられる。こんなにも小さくて柔らかくて細くて頼りない。弱い体だ、俺よりもずっと。死んでいった誰よりもずっとずっと。それでも危険な場所に引きずっていこうとしているのだから、本当にこいつは男運がないんだろう。
「、避けないでください」
ギュッと拳をつくり、いぶきの胸元に押し付けるようにその手を触れさせた。とくりとくりと小さな鼓動が伝わってくる。言いたいことは言い切ったと俯いたままいぶきから距離を取る。とすんと椅子に再び腰を下ろせば嫌に時計の秒針の音が鼓膜を叩き、自分の中で血液が結構な速さで巡っているのが分かった。
「あ、の…」
それでも俺以上に緊張しきった声で話すいぶきの声はとても鮮明で、なんとか顔を上げてそれに応えれば想像していたどんな顔でもないいぶきがいた。
顔が、赤い。頬が桜色に綺麗に染まっていて、目元にも朱色が灯っているその表情はずっと俺が見たかった表情の一つだ。
「すみません、私…勘違いをしていて……」
その表情でもう満足だった。全てが報われたようなそんな気持ちにすらなった。だってそうだろう、初めていぶきが俺を“その他大勢”の優しい人の括りから出したのだ。やっと伝わったのだ、ぶわりと鳥肌に似た感動を覚え、思わず立ち上がってしまいそうなほどに喜びが全身を駆け巡った。血に乗って隅々までいきわたったその熱は指先をじんわりと温める。熱を逃がそうとぱたぱたと顔を仰ぐ様子すらなんだか俺への祝福に見えてきて、こんなだから男は単純だと言われることが多いのだろうと深く実感した。
「安室さんは、その……」
「いいんです、分かって下さったのなら…避けられていたのは少し堪えましたが」
思ったよりも弱った声が出てしまって、それを敏感に察したのだろういぶきの眉が斜めに下がった。彼女の中でどういったことがあったのかは分からないが、勘違いだったと先ほど口にしたあたり、また彼女がいたと思ったとかそういったことだろう。こちらを怖がるようにしていたことに関しては、恐らくは毛利先生が言っていたことが的を得ている気がした。誰にでも優しい人が怖い、自分の為にも身を張ってしまえる人が怖い。そんなところだろうし、こいつはそういう女だ。
「てっきり、私……、すき……かと…」
「え?」
いぶきの口からとんでもない単語が飛び出てきて、途端にどくりと心臓がうるさく高鳴った。正直すぎる己の心臓を上から一度押さえつけるようにしてたたきつけ、ごほんとわざとらしく一度咳ばらいをさせてもらった。なんかいま、間違いじゃなければ好きって言わなかったかこいつ。はあと大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。よし落ち着いた、大丈夫だスマートに受け取ろう。
「安室さんが、……お、沖矢さんの事を……」
時間が止まった。
「その…私と沖矢さんが出かける時に出くわすのは普通じゃないって言われて…それが好意から来るんじゃって指摘されて……安室さん、私に気を使ってるんじゃって思ってしまって……私はそういうの偏見はないんですよ!た、ただ…その…いちおう恋敵の私の事まで身を挺して守ってくれるんだって思ったら……甘えられなくて」
「もういいです」
ここ数年の中で一番顔が死んでいたと思う。
という事は何か、こいつは俺が、あの、うすら寒い笑い方をする、男に、気があると、そう思っていたという事か。
なあ、気のせいか、天国の伊達、松田、荻原、そしてスコッチの名で死んだあいつ。お前らのゲラゲラとした笑い声が聞こえてくる気がするのは。一気に脱力し、いぶきの家だというにもかかわらず座っていたソファーにズルズルと体を沈ませて顔を腕の中に隠しこんだ。正面から困ったように「安室さん…?」と声をかけてくるいぶきがいるが知ったことか、お前のせいだからなこの状況。なんて責任を押し付けてふてくされたくなってしまった。まあ、でもこれくらいが丁度いいのかもしれない。問題は山積みだ、そもそも俺は“安室透”であり続けるし組織のことだってある。本職のことだってこいつにはきっと言えないままだ。でもまあ、何とかなるだろうと思わせてくれる何かがこいつにはあるのだ。きっといつかの未来でもしょうがないなあなんて笑って俺を許してくれるんだろうなと思ってしまっているんだから、もういぶきは諦めた方が良い。
俺から離れることを、もう諦めてもらった方が良い。
「覚悟していてくださいね」
「え?」
もう俺の与り知らぬ場所で、こいつが消えることなんて絶対にない。この先何があってもとにかくこいつがこうやって呑気に自分の勘違いを恥じて顔を赤らめているような日常を護れればそれでいい。
「耐えるのは、得意な方なんです」
笑って宣戦布告をする。なんだって耐えてやる。俺の名も呼べず、居もしない男に捕まってしまったいぶきを絶対に憐れむこともしないと誓う。何も知らずにニコニコとこいつが笑うためならば、罪悪感だろうが後悔だろうが丸ごと俺が飲み込んでやろう。毒だろうが何だろうが、いぶきが気が付く前にすべて飲み干して見せてやる。
話を理解できていないのだろういぶきがまた首を傾げているのを見て思う。それでもいつか、いつか許された時にはまたこいつと二人で寄り添って生きていく先を夢見てもいいだろうか。あの時俺が逃げ出してしまった、その先を。
2018.5.6
投稿日:2018/0506
更新日:2018/0506