孤独の夕べに哭けたなら

色の大分褪せた小さな鳥居をくぐりぬけても尚、足は止めない。
止まってしまったらもしもの時にきっと私は走れない。結局は迷ってしまって随分と遠回りをしてしまったせいでこんなにも疲れてしまっただなんてそろそろ泣きそうだ。社のある場所まで行けば確実なのだが残念ながら先ほどここに来た時はそんな場所など見当たりもしなかったので走るしかない。木々の間を縫って走っていると相手から自分が見えなくなるだろうという安心感と共に自分の走る後からついてくる木々の揺れる音に追われているかのような脅迫を受ける。だからこそ足が止まらなくていいのだがこの恐怖はどうあっても心臓に悪い。


「うっわ!」


しかしその逃走劇も呆気なく終わりを迎える。先ほど転んだばかりだというのにまた、今度は盛大に転んでしまい草の上を少し滑るような勢いで余りの間抜けさに茫然としてしまう。暫くその体制でいたが後ろから聞こえる音は風が木の葉を揺らすさざめきしか聞こえず、やっと息をついた。とは言っても疲れ切ってぜぇぜぇと荒い息を転んでしまった情けない状態のまま落ち着かせているからあまり人に見られたくないので、すぐにでも立ち上がらなければならないのだが。
しかしいったいどこだここは、普通社は鳥居をくぐって真っすぐ進めばつくものじゃないのだろうか、それなのにどうして私はこんなに緑豊かな場所で寝転がっているんだろう。うつ伏せのままなのが苦しくてごろりと寝返れば風がそよいで気持ちが良かった。


『おぉ…結界が破られたぞ』


ふぅ、と大きく息をついた時だった。
びりりとそんな長閑な空気を脅かす様なそんな音だった。低く、動物が唸るようなその声に驚いてがばりと上体を起こす。ぶるりと引いてきた汗が背中をつっと伝い、肌が泡立って寒気すら感じた。あたりに目を走らせれば小さな祠、背景に紛れて消えてしまいそうなそれの周りには太いが古ぼけている縄が張られている、がしかしその縄がどういう訳か自分の足元で切られている。
結界、破られた、そしてこの切れた縄。さぁっと血の気が引いた、待って嘘でしょうなんでこんな丈夫そうな縄が私の足で切れてしまうのだ、もしかしなくてもこの縄に躓いて転んだのか。切れたそれの両側を持って何とかならないかと四苦八苦したが到底無理でチクチクと針のように指の腹を突かれるだけ。
ついにガタガタと妙な音を発し始めた祠に身を固くする。見ればなんとその音に伴ってそこだけ地震が起きているようなそんな揺れまで目に見えて確認できてゴクリと喉を鳴らした。祠の周囲に妙な黒い靄まで見えてきて焦りと共に手を強く握ったら縄が手の腹に食い込んで痛みを発する。
周囲に強い風が巻き上げて思わず目を瞑りそうになったが目を細めるだけで耐えた、だって今にも祠の戸が開きそうだ。
ぼとりと縄が両手から落ちたのが膝のあたりで感じられたが、それと同時に大きな音を立ててバンッと戸が開いた。


「………」


招き猫、だろうか。
黒いくりんとした大きな目と目があったがどうにも不細工に見えるのはどうしてだろう。数秒呆気にとられていたがそのあと何が起こる訳でもなく、勢いよく開いたとびらの片方が壊れたのかギギギ、と変な音を立てて軋んでいた。
一気に力が抜けて、ここまで気を張っていた自分が可笑しく思えて、加えて目の前には不細工な招き猫。
っぷ、と笑ってしまったのはしょうがないと思う。
しかしその途端にまた突風が正面から顔にたたきつける様に吹き、バフン、と土を抉るような大きな音がして今度は目を瞑ってしまった。そして私はその間際に空にとんだそれを目に捉えていた。煙と風と、あたりの草と一緒に空を舞ったそれは紛れもなくあの招き猫だった。


「人のくせに私を見て動じないとは生意気な」


「…慣れてるから」


しゅたりと着地したそれが、声を発する。
その私の返答に満足したのか猫の様に前足を舐めて毛を整え始めたそれは、もう紛れもなく猫だ、不細工な猫。先ほどまでは無機物でしかなかったそれが今は命を持って動いて、こちらに語り掛けてくる。その声は先ほどこちらを威圧した低い声とは違い間抜けにすら聞こえそうなものだった。にゃんにゃん言い出しそうだ、まごうことなき猫だ。
横目でこちらを見て、ふてぶてしい奴め、と言われてしまったがまるっきりその言葉を返してやりたい。こうやって動じずに猫が話すことすら疑問を持たないだなんて、本当に私も慣れてしまったのだろう。慣れないことの方が多いけれど、すべてに驚いていてもこちらが持たないのだからしょうがない。


「おや、お前夏目レイコじゃないか」


「いや…それは祖母の名前だよ」


ここに来てから本当によく彼女の名前を聞くようになったと、驚きを隠しつつ返答する。この猫もどうやら祖母を知っているらしいがあまり多くは話さない方が良いだろう。見た目はこんなのでも、先ほど体に走った震えはまだ記憶に残っていた。危険かもしれないと頭の隅で思ったのだ、まぁ大丈夫だろうともどこかで思ってはいたが。


「祖母?なんだそれではお前はレイコの孫か。成程よく見ればレイコよりなよっちぃな」


なよっちぃって…と少し落ち込みながら私に寄ってくる猫を目で追いかける。匂いがどうのこうの言っていたがそれは所詮妖にしか分かりえないものだろうし聞き流す。
祖母を知っているのかと問いかければ横まで来て立ち止まったそれに黒い目を向けられる。もともと招き猫のそれがそうだったのかもしれないがその目は弧を描いていてまるで笑顔を浮かべているかのように見えた。


「あぁ、それはそれは美しい人間でな…お前と同じように妖ものを目に映すことができた」


黙って、穏やかな風が髪を揺らしている中でその言葉を聞く。そんな私に構わずに猫は続ける。地面についた指の隙間に擽る様にして草が撥ねる。それは春の香りで柔らかく幼い草は日に当たって暖かかった。

だが周りのものには見えない
誰もレイコを分かってはあげられなかった
レイコはいつも一人だった
いつもいつも一人だった

まるでおとぎ話のような語りに、そっと目を伏せた。そうかレイコさんも一人だったのかとボンヤリと繰り返す。いつもいつも一人だった。それは悲しくて寂しくて苦しい言葉だ、一瞬にして終わってしまった夏目レイコという昔話の終末は本当にそれだけだったのだろうかと思いはせる。もう知ることができないと分かり切っているのにそれだからこそ知りたいと思ってしまうのは人間が傲慢だからなのだろうか。


「ひとり…」


空を見上げれば木漏れ日が揺れていて木々の波のような音が空の上を通り過ぎていく。遠くで車の音が聞こえてもいいくらいなのにここは不思議となにも聞こえない。
そこで、と下から聞こえた声に顔を向ければやはり不細工な猫がこちらを見上げていた。なんだってこんなに不細工なんだろうか。


「レイコは妖ものを相手にし始めた…友人帳を知っているかい?」


一人だったレイコさんが何を思ったのかは分からない、私の様に寂しかったのかもしれないし苦しかったのかもしれない。けれども妖もののせいで一人になったはずの彼女は妖ものを相手にし始めたという。
そして“友人帳”。
あまり、考えたくないと思ってしまった。
今まさにそれを持っていると思い出して鞄に手をかける、それでも大事な祖母の遺品だ。
しかし、それがいけなかったのだろう。目付きの変わった猫がほぅ、と息を吐いた時にそれに気が付いたがそれではもう随分と手遅れだった。


「それを寄越せ」


まただ、悪寒を感じるほどに嫌な感じがした。あの黒い霧を纏った猫はふわりと空に浮かんだ。黒い霧の向こうに丸いシルエットが浮かんでいるせいでしまりがないがそれでも嫌なものだ。
寄越せだなんて、結局妖は妖なのだろう。あの頭でっかちと同じだ、少し話してしまって話は通じると思っていたがそんなことはなかったのだ。ジッとそれを険しく見つめればちょうど座り込んだ私の頭の少し上で漂い始めたそれは黒の中でにやりと笑った。


「それは、お前の持つべきものではない」


なんだってそんなことを言われなければならないのだ、たった一人のレイコさんのたった一人の血縁の私がこれを持つべきではないのだと、どうして言われなければならないのだ。
ようは図星を刺されたように思えたのだ、今まで私の中の祖母という存在は遺品となってしまったあの箱で、そしてそれを嫌煙していた私への罰の様に思えたのだ、今更遅いと。けれど、だけれども。


「友人帳を…」


くる。


『寄越せぇええ!』


一瞬、黒い靄から飛び出してきたときの招き猫が別のものに見えた。
それは美しく気高い何かの獣だったように思う。目は輝き、牙は鋭くとがって私を喰わんとするようだった。白い獣の顔と目があったと思ったときには、しかし私は咄嗟にそれを殴りつけていたのだ。




 - return - 

投稿日:2017/1126
  更新日:2017/1126