孤独の夕べに哭けたなら
蝶に逃げられ悔しそうにしている先生にそういえばと声をかける。蝶を追っていた時の動きはまさに猫だったから先生はもう猫でいいと思うのだがそれを言っても先ほどと同じようなやり取りで終わることが目に見えていたので黙って置こうと思う。
「この中に先生の名前もあるの?」
「あるわけなかろう、私がレイコなんぞに負けるか!」
心底憤慨した様子で両手両足をバタつかせるニャンコ先生が少し怪しかったが、では先生とレイコさんはどういった関係だったのだろうとふと思った。ここに名のある妖たちは契約の元にレイコさんの子分だったらしいからどうか分からないが祖母と先生は友人だったのだろうか。しかしそれを聞くのはいけない気がして、結局は聞けずでも封印されてたよね、と後ろの祠を指させば、ぎくりと面白いくらいに固まって顔を背けられた。ごにょごにょとあれにはなぁまた色々と深い訳があって…と小さくなる声にいったいこのニャンコはなにをやらかしたのだろうと白い目を向けたが、いやー!と突然こちらに振り返ってそんなことよりもだ!と話しをわざとらしく切り替える先生。しかしその話は真面目なもので私の手元にある友人帳を前足で指しながら続けた。
「お前が考えているより友人帳の力は悠に大きい、だからこそそこに名を連ねた妖達は必死に夏目レイコを探しているのだ」
文字を傷つけられるとその妖も傷が付く、名を呼ばれれば逆らえない、紙を燃やせば妖は灰となり死んでしまう。あげられたそれらは物騒極まりなく、友人帳という響きには似つかわしくないと思った。
名前は呪いだと、どこかで聞いたことがあるがまさにそれを体現したようなそんな塊が今私の手の中にある。一番根強く、そして切り離せない大切な呪い。
いったい祖母はなにを思ってこれを作ったのだろうと、昨日より知れたことは多いのにも関わらず余計に分からなくなってしまった気がして俯いてしまう。
「お前、危ないぞ」
細めた目はジッと私を見ていて少しだけ不安になってしまった。
今までだって散々危ない目にあったりしたし、死ぬかもしれないと恐怖したことも少なくない訳ではない。でもそれは突然理由もなく訪れていた理不尽なものだった。それがこれを持つことによって代わる、妖が私に手を出す正当な理由を自ら持ってしまっているのだ。
でも、だからこそ。
「あら、こんなところでどうしたの?」
突然後ろからかけられた声に驚いてビクリと体が反応した。振り向けば着物を着た中年の女性がこちらを見下ろしていて咄嗟に大丈夫ですと言いつつ立ち上がる。
妙に背中がうすら寒い、落ち着かない。
にこりとずっと笑っている女性に頭を下げて立ち去ろうとしたが、それはどうにも無理なようだと気が付いたのは女性の目が私の手元に釘付けになっているからだった、友人帳をみて、私の顔を微笑んで見つめて。
『戻ってきていたんだね、レイコ』
その声は優しげではあった、しかしどこか狂気を孕んでいてそれにはっきりと恐怖を覚える。本当に嬉しそうに私を見てレイコと呼んだということは、妖か。
気が付いた時にはそれがこちらに倒れ掛かってきていて、声をあげて後ずさる。三日月のような目は全て黒目になっていて髪の毛が不自然に蠢く。四つん這いのままこちらを見上げてきたその顔は変わらずに笑顔のままだったが恐怖を感じるには十分だった。寄越せ友人帳と叫ばれた声の音についていくようにバッと走り出す。
「おもっ!」
「やれやれ、どこに行くつもりだ」
「せんせい、まって重い重い重いおもい」
背中に飛び乗ってきたニャンコ先生の重さにつんのめりそうになりながらも只管走る。そういえば私は神社にいたはずなのにどうして妖が入ってきたのだろう、さっき会った奴などそれこそ入ってこれないような奴に見えるのに、もしかして知らないうちに私は神社から出てしまっていたのか、そんな馬鹿な。
そんなことを考えながらも後ろから追いかけてくる声は迫ってきている様に思う。待てレイコ、友人帳を寄越せと繰り返していることからもしかしたらあいつもここに名前があるのかもしれないが話が通じるようには見えない。
そこの茂みに隠れろ、と顔の横にいた先生に従って半ば転ぶようにそこに入り込めばすぐにそこを通っていった影にほっと息はついたがどうすればいいだろうとため息に変わってしまった。
「どうしよ…」
「人の手に負えるものではないわ、さぁよくわかったろう?だから私におくれー」
へにゃりと笑いながら手をこまねいているニャンコ先生に咄嗟に首を振る。なにいっているんだこのにゃんこは、先ほども奪おうとしていたのは忘れてはいなかったが用心棒になるだとかいっていたのに結局はそれか。
「嫌だ」
「なぜだ、人間のくせに妖ものの上にでも立つつもりか?」
「そんなわけないでしょ」
「じゃあなんだ、お前にとってそう使う以外なんの意味がある?」
「先生には関係ないよ」
そう、突き放す様な言葉を紡いだ瞬間に空気が変わった。
それまではどこかお茶らけたような話し方をしていた先生がぼわりと煙を纏ったと思った途端に、先ほどまで見下げていたその黒い目はいなくなって鋭い眼光を携えた獣に見下ろされていた。さっきのは見間違いではなかったのだと呆気にとられ、大きなその姿に少し後ずさる。孤高でどこか神々しくさえ見える白い獣は、明らかに怒気を持った目でこちらを冷たい目で見ていた。
まずい、そう思ったときには大きな前足に踏みつぶされてしまった。
地面に押さえつけられた体には苦しいほどの重さが加わって、背中にしかれた草までもが悲鳴を上げている様に妙に青臭く鼻に付いた。大きすぎる爪は鋭くて、顔の両側に突き刺さっている様を見るに十分殺されてしまいそうだったのにあの牙さえも向けられてしまって、近づいてきた顔に重さまでもまた増す。あまりの重さと苦しさに牙や爪よりも先に潰れる方が早いと思うほどだ。白い毛並みに赤い紋様のある顔が、あの低く唸るような声を発している。
『気が変わるまでと思ったがやめだ、友人帳を寄越せぇ!』
「だ、め!先生こそ、変なことに使う気でしょう!」
『当たり前だ、そんな面白いもの』
なんてやつだこの似非にゃんこ…!
この時不思議とそこまで恐怖を感じていなかったのは、きっと先生がまだ私と話してくれていたからだとおもう。牙や爪を突きつけられたってそれでもまだ私から口で奪おうとしているのだと頭のどこかで思っていたのだ。それに、どうしても祖母との繋がりを断ちたくはなかった。他にも遺品はあるのだが、祖母を知れるのはきっとこの友人帳以外にはないのだと直感していた。
なにより。
早く渡さないと潰してしまうぞと脅されて、さらに体重がかけられた時に左手が自由なことに気が付いて力の限り振でれば、鈍い音が手の骨から伝わってきて同時に体に酸素が戻ってきていた。
投稿日:2017/1126
更新日:2017/1126