泣かないで、グレーテル
神社に来たかったはずなのに、どうしてこうなったのだ。いつのまにか先生は足元におらず、あれ、と思ったときに背後からおどろおどろしい声で「あの」と声をかけられて、振り返ってしまった。にたぁ、と枯れた歯茎のせいで長く見える歯の根元が見えるくらいに口を歪ませた何かがそこにはいて、耐えきれず叫んで走り出したのはもう何分前の事だろうか。
「(用心棒じゃなかったのかあの猫!)」
肝心な時にいない先生に内心悪態をぶつけながら走り回ってしまったせいで当初の目的地であった神社へ向かえばと思い付いた時にはすっかり道が分からなくなっていた時だった。名前を返してほしいというのなら返すと叫んで追ってくる奴に訴えようかと思ったが、感覚があいつの名前は友人帳にはないと訴えてくる。肌身離さず持っておけという先生の言葉に従って薄っぺらい鞄に件の友人帳も入れているのだが取り出して名前を探そうという気にもならなかった。
『喰ろうてやろうぞぉおおお!その細い脚をおくれぇええ』
「っひ」
断定だ、こいつは絶対に友人帳には関係ない!げらげらと大声で笑い始めた妖に情緒が不安定過ぎると思いながら、どうして振り返ってしまったんだと過去の自分を悔いる。明らかに可笑しい声だったのにも関わらず振り返ってしまったのはどう考えても私が悪い。知らないうちに奴は足を一本落としたらしく、四つん這い…いや三んつ這い?でぼさぼさの髪を振り乱しながら凄い勢いで追いかけてきていた。下唇を噛みしめて悔しさを押し殺しながらもつれそうになる足を回すように動かす。前方に見える信号が点滅し始めたのを見て既視感を覚えながらその角を曲がった時、自分があの時と同じ場所で曲がったのだと理解した。なぜなら。
「…みこと?」
「(確かに御礼しに会いに行きたかったけどタイミング!!)」
スーツを着た奥村君が不思議そうにこちらを見て立っていたからだ。嘘でしょうと絶句しながらも、しかし足を止めるわけにはいかず何やってるんだと言わんばかりの顔をしている奥村君にぐんぐんと近づく。どうしようどうしようと思いながらも、けれどこのまま奥村君のことを通り過ぎたとして後ろのあいつが奥村君になにもしない確証などなくて、血の気が引いたような、足元が抜けるような恐ろしい感覚を覚えた。気が付いた時には奥村君の手を掴み、無理やり引っ張って道を走っていて、「おい!」と戸惑う声をかけてくる奥村君に一切振り返ることなく必死に足を動かした。訳が分からないながらも一緒に走ってくれた奥村君のお陰ですぐにたどり着いた修道院の入口に、いつかと同じように身を隠す。そしてあの時の様にこちらを見失ったらしい妖の怒りの声が聞こえ、そして遠ざかる気配にその場に崩れ落ちる様にしゃがみ込んだ。
「お、おい…急にどうしたんだよ、大丈夫か?」
どうしよう、どうしよう、巻き込んでしまった。ここがばれたら、この家が奥村君の家だと覚えられたら。もし、もしあいつが奥村君の顔を覚えていたら、なにかあったらどうしよう。逃げられたという安堵など微塵もなかった。最後の怒り狂ったような様子から次に見つかった時にどうなるか分からないような危うさすら感じられた。そんな奴にもし、奥村君が目を付けられてしまったら。走って熱い筈なのに手足の先が氷の様に冷たくなり、胃がぎゅっと縮んだような気持ちの悪さを感じて目を瞑る。ばくばくと煩い心臓を落ち着かせようと深く息を吸ってもなかなかうまくいかず、どうしようという言葉ばかりが頭をグルグルと回ってしまう。
「燐お前何やってんだ?」
「ちちちちげーよ!」
「なにがだ…お前さっき出たばっかだろ、っと?みことちゃんか?」
その声にいつの間にか下を向いていた顔をバッと上げれば、藤本さんが窓からこちらを覗いていて、途端に体から力が抜けたようなそんな感覚を覚える。お陰でずっと握りっぱなしでいた奥村君の手にも気が付いて、ハッとして慌てて離してすぐに謝る。やっと落ち着き始めた心臓を一度宥める様に上から手で押さえて、奥村君にきちんと向き合う。
「ごめんなさい、急に引っ張ったりして…」
「あ、いや、別に…」
「変な人に追いかけられて、思わず奥村君まで引っ張っちゃったし、ここに逃げ込んじゃって……」
「え、大丈夫かよ」
「うん、なんともないよ」
本当に、ごめんなさい。と頭を下げて謝れば慌てたようにいいから!と肩を掴まれて顔を上げさせられる。嘘をついたことがつきりとどこかに傷を作ったような感覚がしたけれどそれを無視して笑顔を浮かべればやっと安心してくれたように肩を解放された。
「春だから変態も多いのかねぇ、災難だったなみことちゃん」
わざわざ外に出てきてくれたらしい藤本さんにもしっかりと向き直り、すみませんと頭を下げる。数えきれないほど迷惑をかけているというのに、またここに逃げ込んでしまって挙句に妖の問題に巻き込んでしまったなんて、謝っても謝りきれない。いいから、と頭を上げる様に言ってくれる藤本さんの顔を見れば、すべて分かっているというような笑顔を向けられてしまって余計に申し訳が立たなくて、視線を落としてしまう。どうして、私はこうなんだろう。
「燐、お前みことちゃんの事吉備さんの家まで送ってやれ」
ダメだ、今奥村君を外に出してしまってまたあいつに出会ってしまったら確実に覚えられてしまう。それになにがあるかわからない。サッと顔色が失せたのが分かったけれど当たり前の様に「おー、行くぞー」と門の外へと出ていこうとする奥村君に余計に慌ててしまって言葉が出てこなくなる。一人で出たほうが絶対にいい、そう視線で藤本さんに訴えるも、笑顔でそれを流されてしまう。
「本当だったらここにもう少しいてもらいたかったんだが、ちょっとそうも言ってられそうになくてな」
「そ、んな」
ここに居続ける方がきっと迷惑だ。今回のあいつは匂いで追いかけてはこなかったけれどもし他の妖が寄ってでもきたら。だからこそあまり吉備さんの家にもいないのに、それがここに変わってしまっては意味がない。巻き込みたくない、誰も、私の問題に。
しかしそんな私の考えなど見透かしたように笑う藤本さんを見ていると、すべての言葉も考えもまとまってくれず、結局は黙って懇願するように見上げるしか出来ずにつっ立ってしまっていた。
「燐なら大丈夫だから、な?」
ゆっくりと、背を少し曲げて手を伸ばしてきた藤本さんの右手が、ぽんと私の頭に乗る。温度のある手がそうして頭をかき交ぜるように髪をぐちゃぐちゃにするまでに動いて、そしていなくなった時にやっと撫でられたのだと頭で理解した。びっくりしてしまって茫然と遠ざかる右手を見送って、そしてどうしてか顔が熱くなった。
「うちも大丈夫だから、なにかあったら今日みたいにここに来なさい」
「は、い…」
本当に、私の考えていることが分かっているかのように言葉をくれる藤本さんに私は甘えてしまっていいんだろうか。絶対に、藤本さんにとっていいことなんて一つも無くて、災厄しか招くことのできない私では、やっぱりこの人にいままで貰ったものの御礼なんてできるわけがないとまで思えてきてしまって、無性にやるせなかった。
「明日だったよな入学式、用事が片付いたら見に行くからなぁ〜」
そういって背中を軽く押されて、門の所で待っていてくれた奥村君の方へと誘導される。振り返って藤本さんを見上げれば優しい笑顔のまま「気をつけてな」と言われ奥村君にも行くぞと促されてしまって、もう一度深く頭を下げるくらいしか私は出来なかったのだ。
なにか、この時言葉を見つけていられたら、なにか違っていたんだろうかと先の私は何度も何度もそう思うことになる。
投稿日:2017/1126
更新日:2017/1126