縊鬼ー下
生暖かい、気持ちの悪い影に肌を這われている。
自分のパーソナルスペースに赤の他人が紛れ込み、その温度が纏わりついているような嫌な感覚。人の温度だとそう気が付くと一気に身の毛のよだつような寒気が背筋を走り足元まで落ちていき、爪先が一気に冷え込んだ。その温度を発する何かは見えない。ただ自分の知らない何かだという事だけははっきりとわかる。身を捩ってそれを払いのけようとするも動かした腕がずぶずぶとその影に埋もれていく感覚に襲われ、悲鳴を上げる。その途端待っていたとばかりに開いた口目掛けて体を覆っていた影がずるりと引き寄せられるように蠢いた。悲鳴を上げるために吸い込んだ空気が、どろりと肺を満たしていくようで溺れかけた、その時。
「出雲ちゃん!」
「…っ!ぱ、朴…」
乱暴にそれらすべてが落下するように全身から剥ぎ取られたような感覚と共に突然視界が開けた。ぜーぜーと音がすると思ったらそれが自分の荒い呼吸音で、まるで走った後のように煩い心臓の音と混じって一瞬ここがどこなのか、何をしていたのかと頭が混乱する。心配そうにこちらを見下ろしているのは同室の朴だ。そうだ、ここは私の部屋で、今は夜で、私は眠っていた。
「……ゆめ」
「魘されてたよ…」
「みたいね…もしかして起こした?」
「ううん」
何でもない様にこちらから謝罪の言葉を奪った朴が、そっとベッドに腰掛けてくる。体を起こせば薄らと汗をかいていたのか部屋着が背中の真ん中にくっついているのが分かって不快感に眉を顰める。それをみてやはり気分が優れないのだろうと心配の色を深めて声をかけてくる朴に、平気だとだけ答えた。
平気だ、私は。しかしこういった夢を見る時は大抵“そういった”類の悪いものが蔓延っている時なのだ。
「朴、あんた体調は?」
「私?平気、だけど…」
「……嘘じゃないでしょうね」
「嘘なんてつかないよぉ」
へにょりと下がった口角と眉をジッと見てどうやら本当に大丈夫なようだと信じることにする。案外朴は嘘をつくのだが、体調が悪いときは何より顔に出やすい。まさに寝起きと言わんばかりに薄らとシーツの後のついた頬は健康的に桃色である。ついでとばかりに寝癖も立派についている。よくこれで起こされたと聞かれた時に嘘をついたものだと、少しだけムズムズとしたものを感じながら、それを指摘してしまうことは出来そうになくて視線を逃がす。その時自然と壁の掛け時計に視線が向いた。見事なまでに丑三つ時を指している。
「どんな夢だったの?」
「気味悪い夢」
「そっか」
祓魔塾をやめた朴は、けれど魔障を負っている。見えても何もできない、しないという選択を取ったのだ。それに関して未だに思うところが無い訳ではないけれどこの友人の選んだことが間違いだとは思えない。きっと朴にとってはそれが最善で、いい道だったのだ。だからこんな時も深くは追及してこない。むかし、夢見が悪い時に悪魔が関係していることがあると話したことを、きっと彼女は覚えているのだ。
『―――めて』
「!」
「い、いま」
「っし!」
『て……』
びくりと肩を震わせ確認するようにこちらを見てくる朴にも、確かに聞こえたらしい。二人だけのはずの部屋に、第三者の声が聞こえたのだ。それも、囁き声。扉も窓も閉めている。大声であれば多少はくぐもって聞こえてくることもあるが、寮の壁は囁き声を通すほど薄くはない。ぐるりと部屋を見回したが当たり前だが何者も部屋にいるようではない。
『とじて』
はっきりと、聞こえた。
ぎゅっと朴が手を握ってきたので落ち着かせるように握り返す。女の声だった、女というよりは少女。口に手を当てがって、そっと潜めて音を沈めたそんな声。あたかも自分の耳元で囁かれたような心地になり、思わず開いている手で耳元をパタパタと掃った。
ああ、そうだ。この感覚はたった今まで見ていた夢のそれに酷く近しい。見知らぬ何かがすぐそばにいて、温度を持って纏わりついてくるそれ。なのにその正体はまったくつかめず、背筋になにかが這い上がってくるような君の悪さだけを鮮明に残していく。
一度ハッキリと聞こえた後に声が続くことはなく、そろりと朴が首を回した。
「平気よ」
敢えて平坦な声でそう呟く。実際は今の声がなんだったのかも、本当に平気なのかも分からない。けれどここで不安を煽って心に隙を作るよりは、大丈夫だと思い込むことの方が最良だ。枕元に置いてある携帯のつながる充電コードを指に引っ掻けて手繰り寄せる。手に持って一瞬ためらったが、緊急事態だと判断し連絡先からある人物を引っ張り出す。確実に眠っているだろうが自分一人では朴を護ることは、できない。悔しさに顔を歪めそうになったが不安がる朴の前で見せる顔ではないことだけは明確だったためぐっと堪えた。
「先生を呼ぶから、朴は寝てて」
「…わかった」
明らかに落ちた声のトーンに少し笑ってしまいながら、寝癖の面白いことになっている頭にグシャリと手を差し込んで出来るかぎり明るい声でお休みを告げた。
投稿日:2019/0608
更新日:2019/0608