不可解
誰もいない更衣家で小夜の帰りを待っていた。
「そろそろかな」
風呂の仕度を終えて呟くと玄関の引き戸の音がした。
「おかえり、小夜ちゃん」
「ふ、文人さ……っ!」
玄関に出迎えに行くと靴を脱ぎ、上がろうとしていた小夜は驚き躓いた。
駆け寄り小夜が転ぶ前に受け止める。
「大丈夫?」
「はい、すみません」
腕の中でずれた眼鏡を直しながら見上げてくる。体勢を整えたのを見届け腕を離した。
「唯芳さんから今日の事聞いてる?」
「はい。今日は帰れないと朝聞きました。ですから今日一晩は小夜一人で家を守ります!」
小夜のやる気に満ちた言葉に笑う。
「僕が来ることは聞いた?」
「いえ、聞いていなかったので驚いてしまいました」
「唯芳さんから小夜ちゃんの事頼まれたから一晩よろしくね」
「こちらにお泊まりになるんですか!?」
「うん」
頷くと小夜は喜んだ。喜ばれて複雑になりつつ小夜から鞄を取る。
「お風呂沸かしてあるから入っておいで」
「はい!」
元気のいい返事をして小夜はお風呂に向かった。
後ろ姿を見つめながら、帰ったばかりの小夜に声をかける直前に浮かべていた表情が気になった。疲れていたのだろうか。小夜が?
疑問を浮かべながら夕食の仕度へ向かった。
「ご飯美味しかったです」
「ありがとう。今日は三食小夜ちゃんに食べてもらえて嬉しいよ」
夕食後。居間のテーブルに持ってきた水筒から珈琲を注いだカップを小夜の前に置いた。
小夜は僕の言葉に何か気づいたのか慌てながらすぐに肩を落とす。
「すみません……三食も」
「いいんだよ。小夜ちゃんが僕の作ったもの食べてくれる姿好きだから」
言いながら向かいに座る小夜の頭を撫でると顔を上げて少しだけ笑んだ。嬉しいのに申し訳ないようで何て言ったらいいのかわからない困ったような表情だった。
「……ありがとうございます」
笑みで返して頭を撫でると小夜は遠慮がちにカップを持ち珈琲を一口飲んだ。
「小夜ちゃん、疲れてる?」
「疲れですか?いえ、特には疲れていないです。お風呂とご飯のおかげで元気です。文人さんのおかげです!」
笑顔で答える小夜の頬にそっと触れる。
小夜は小首を傾げて不思議そうに見つめてくる。
「帰ってきた時元気がないように感じたから」
「あ……それは」
思い当たる事があったのか顔を俯かせてカップの中身を見つめる。
無理に聞くのではなく言いやすいように頬を撫でて待った。
「父様がいないとわかっていたので帰っても誰もいないのだと思ったら少し悲しくなってしまったんです」
あの時の不可解な表情は悲しかったからなのだとわかった。
一瞬撫でるのを止めた手を再び頭に移しゆっくりと撫でていく。
小夜は恐る恐るといったふうに顔を上げた。
「文人さんがいてくださって嬉しくてあんなに驚いてしまいました」
恥ずかしそうに笑む小夜。帰宅時の自分を思い出したのだろう。
「小夜ちゃんにそう言ってもらえると嬉しいよ。ありがとう」
手を離し座り直すと小夜は珈琲を飲み干した。
「じゃあ寝る仕度をしようか」
「文人さんもこちらで寝るんですか?あ、でも私お客様用の布団がどこにあるのかわかりません」
「大丈夫。唯芳さんに聞いてあるから」
「そうですか」
安心したように息を吐く小夜。
本当は小夜が眠るのを見届けて戻るつもりだった。でもそれを小夜に伝える必要はない。
「ではおやすみなさい」
「おやすみ、小夜ちゃん」
小夜の部屋の前で就寝の挨拶をする。小夜が襖を閉めかけて止まった。
「小夜ちゃん?」
「あの……」
見上げて何か言いたそうにしながらも言えずにいる小夜を見つめ返す。
次第に顔を俯かせて何でもないですと呟き襖は閉まった。
全ての明かりを落とし更衣家を出る準備を終えた。
暗い廊下を歩き、出る前に小夜の部屋の前まで足を向けた。
静まり返り明かりがついてる様子もない。
「文人さん?」
くぐもった声が襖越しに聞こえた。
「小夜ちゃん起きてたんだ。眠れないの?」
「はい……」
襖越しに会話をし沈黙が流れる。
しばらくして襖を軽く叩いた。
「入って平気?」
「は、はい!」
小夜の返答を聞き襖を開けると小夜は布団に入りながら上体を起こしていた。
窓から月明かりが入り込み顔がはっきりと見える。
「文人さんもまだ寝てなかったんですね」
「うん」
後ろ手に襖を閉め、小夜のそばに座った。
「早く寝ないと朝起きれないよ」
「はい」
頷いて顔を俯かせたまま小夜は動こうとしない。小夜の肩にそっと手を添えた瞬間こちらに向いた。
「小夜ちゃんが眠るまでここにいるから」
眠るよう促すと支えた腕に身を委ね、ゆっくりと身体を仰向けに倒していく。
布団をかけ直すと右手が僅かに出された。
「今日の小夜ちゃんは甘えん坊だ」
からかうように言いながら右手に触れて、握る。
「すみません……ずっと一緒にいていただいて」
「謝らないで。小夜ちゃん頼ってもらえて嬉しいんだから」
指先で前髪に触れる。微かに額を撫でて離れた。
「ありがとうございます」
「おやすみ、小夜ちゃん」
「おやすみなさい、文人さん」
安心したように目を閉じすぐに寝息が聞こえてきた。
柔らかく握られる手を握ったまま身体を横たえる。
畳の寝心地は悪いけど小夜の寝顔が近くにあるだけでその感覚さえなくなった。
月明かりに照らされる小夜の横顔は綺麗だ。
どうして小夜の様子を最後に確認しにきたのかわからない。こうして小夜の隣で眠ろうとしているのもわからない。
悲しいと言った小夜が不可解だったからかもしれない。
書き換えられた記憶、人格、感情。わかっているはずなのに不可解に感じる。
でも知る事はきっとない。
「……小夜」
小夜の手の感触を感じながら目を閉じた。
H24.7.14