はじまりさえしなかった僕の世界


髪を結い上げ用意された簪を挿す。鏡には白地の着物を着用する自分が映っていた。時代毎に衣服は移り変わっていく。その都度動きやすいものを選んでいた。私の容姿は今の時代では子供の部類に入る。学生服というものは私が着ていても違和感がなかった。それなのに今は動きにくい服装をしている。
ノック音がし扉が開かれると文人の部下が控えていて部屋を後にした。
外に出ると車が何台か止まり文人がこちらに気づくと車のドアを開く。

「小夜は綺麗だね」

文人を一瞥しただけで車に乗り込む。反対側から文人が乗るとほどなくして車が発進した。

「小夜、こっち向いて」

少しの間のあと文人の方へと顔を向けると顎に手がかかり上向かせられた。文人の指先が唇をなぞり紅を引いていく。

「ああいう人達はこういうの好きだからね」

文人が和服を着用するのも珍しいと思ったがそういう相手なのだろう。物珍しいものを見て喜ぶ。人の交流というものは長い時見ていてもわからない。着飾らせられる時代もあったため疑問には思わない。そういうものなのだろう。

「小夜の肌は白いから赤が映えるね」

唇からはみ出した紅を指で拭い手が離れていく。

「小夜だからかな。赤が似合うのは」

白地の着物を用意しながら言う様は異様さがあった。まるで何かを楽しみにしている子供のように見える。追及はせずに顔を窓に向け目的地へと走る景色をただ眺めた。


到着すると座敷に通され私はいつものように黙って文人の隣に座っていた。使われる、というと語弊があるがどこかに属する事は今までにもありこうして人の場に出されることもあった。私に敵意がないのを確認するための時もあれば、力を誇示するのに使われる時もある。今回はどちらもだろう。文人の場合は私を見せびらかすわけではなく、周りを黙らせるためであるようだった。そのあたりの人の駆け引きはやはりわからないし私が関する事ではなかった。私は出された料理には手をつけずに俯き見つめる。

「小夜?」

隔たれた襖に顔を向けた。耳を澄ませるとやはり聞こえる。

「……古きものだ」

獲物を探しさ迷う古きものの鳴き声が響いた。立ち上がり勢いよく襖を開く。後ろでは騒ぎ始め避難を始めているのがわかる。

「はい、小夜」

後ろに立った文人が私の前に刀を差し出してくる。乱暴に受け取り駆け出した。古きものがまだ獲物を見つけぬ内に、その手にかけぬ内に屠るために。


気づけば照明は落ち、薄暗かった。半壊した建物の出入り口に向かう。途中で裾は破いた。白地の着物は赤く染まっていた。私と古きものの血で。来る時の車中での文人が過る。袖で口元を拭うと引かれた紅がつき赤くなる。
外に出ると文人を視界に捉え駆け出した。

「文人っ」

鞘に納めた刀を横にして首に宛がう。

「小夜には知らせていなかったけれど古きものは元からこのあたりにいたんだよ。調べはついてたんだけどなかなか見つからなくて」

刀を上げると文人の顔も上がる。苦しい表情を見せずに笑みを浮かべたまま言葉を続ける。

「会談の場所をここに指定したのは僕だけどね」
「ふみ……っ」

痛みが走ると一気に身体の力が抜け文人に支えられた。刀が地に落ちる。
文人の着ていた上着を肩に掛けられる。抗うように食い縛ると文人は顔を寄せてくる。瞳を覗きこむように見つめられ次第に瞼が重くなり文人の言葉は聞こえない。瞼が落ちると浮かぶ感覚と共に意識を手放した。


力が抜け崩れていく小夜に上着を掛け背を支える。

「綺麗だね、小夜」

赤い瞳は閉ざされ瞼を親指で軽く撫でる。抱き上げ車に乗り込んだ。
交通規制がされ辺りに車は走っておらず都会だとは思えない静けさだった。
小夜を横抱きのまま膝に乗せ乱れた髪の留め具を外し下ろし梳かす。肌触りのいい髪がはらりと指先から零れていった。引いた紅を強引に拭ったのだろう。大きくはみ出し口端を汚していた。それさえ綺麗で拭うことはしなかった。全てが小夜を映えさせるものだから。


屋敷に到着し自室へ小夜を運ぶ。ベッドに寝かせると肩に掛けていた上着が髪と共に広がった。
小夜は基本的なことはできるようだった。原始的なわけでも集団生活の常識を知らないわけでもない。自身で得た事もあれば教えられた事もあるのだろう。そうして彼女は長い時を生きている。それは当然のことなのに腑に落ちない。人はこれを嫉妬と呼ぶのかもしれない。けれど僕は小夜とどうにかなりたいわけでもない。だからこれを何と定義したものかわからないのが些か気持ち悪さがあった。それもまた小夜がいるからでこのままでいいと思った。

「小夜は凄いね。僕がこれまで生きてきて感じなかった事を感じさせる」

小夜の横に座り背に手を差し入れ帯を緩める。赤に染まった着物。それは小夜の瞳を彷彿とさせた。赤く染まる瞬間はとても綺麗でその瞳に捉えられると高揚する。やはり小夜には白い着物も似合っていた。こうして染め上げるには映える。
裾は腿まで破られ傷が多かったが深いものはなさそうだった。治癒しかけているのだろう。
足首から手を這わせ裾からくつろげていく。

「ん……」

襟に手をかけはだけさせていると小夜の瞼が震え上がっていく。まだ身体は動かせずにすぐに状況を把握したのか睨みつけられる。

「被害はなかったみたいだよ。よかったね」

報告しても小夜の表情は変わらない。襟にかけた手を動かそうとすると突然前のめりになった。

「もう動けたんだね」

至近距離で睨みつける小夜の瞳は赤が燻っていた。小夜の手が僕の着物の襟を引っ張ったためはだける。

「君はいつから着付けができたのかな。いつから簪を挿す事を知ったのかな」

何てことはなく用意したものを彼女は何事もなく身につける。それは彼女の歴史であり僕が知らない彼女だった。答えのいらない問い。
襟にかけた手を外し胸元から手を差し入れる。小夜は微動だにしない。着物を赤に染めた彼女の傷はもう治癒していて滑らかな肌が掌に吸い付く。

「っ!?」

強く引かれるとベッドに手をついていた。触れていた肌は離れ視界には小夜の足が映る。見上げると帯は取れ前をはだけさせた小夜が見下ろしていた。僕は着物が引っ張られ肩からずり落ちている。まるで仕返かの行動に笑ってしまう。小夜にすることもされることも僕を高揚させる。

「小夜は綺麗だね」

幾度となく零れ落ちていくように口にする。初めてそう思い、思うのは最後なのだろう。小夜がはじまりでおわり。小夜がいなければはじまりさえしなかった僕の世界。裾に手を伸ばし軽く引くと落ちていくのを見つめた。その瞳に捉えられたように。


H30.1.5