犬耳小夜奮闘記/浮島編:1〜7


光の刀が過る。
なのに私は掴めない。

「もう少しなのに……」

朝の社内。祭壇の前で私は閉じていた目を開けた。

「小夜」
「父様……!」

後方の出入口から声が聞こえ立ち上がり振り返ると足がもつれて地面に伏していた。

「小夜、大丈夫か?」
「はい、大丈夫です。小夜は丈夫ですから」

早足に近づく足音が聞こえ顔を上げると、屈んだ父様が心配そうに私を見ていた。
私はそれ以上心配させないように笑顔を見せる。実際顔を打ちはしたが支障はなかった。痛みはあってもすぐに引く。

「大丈夫と言っても女子なのだから……」

手を差し出しながら言いかけて父様の視線が微かに横に逸れた。
その視線の先にあるものに気づいて確認するように身体を起こしながら片手で耳に触れた。

「……すまない」
「いいえ!やはりこれは人の耳ではないのですね……」

父様が申し訳なさそうに視線を逸らし謝罪を口にする。
原因はやはり私の耳が人のものではなく、獣のものだからなんだろう。父様に心配をかけてしまっている。

「ですが他に異常はありません!小夜は今日も元気ですっ」

勢いよく立ち上がり両腕を胸の前まで上げた。
父様は私を見上げて微かに頷く。

「小夜、言い忘れていたんだがそろそろ出ないと朝食を食べる時間がなくなる」
「えっ!?」

もうそんな時間かと確認しようにも社内に時計はなく、父様が嘘を言うはずもないため急いで仕度をしようと駆け出した。

「あっ……」

そして何もないところで躓き、顔を強かに打った。


「それで凄い勢いで入ってきたんだね」
「朝からお騒がせしてすみません……」

いつものように朝食を食べにカフェギモーブを訪れていた。
サラダを口にしながら恥ずかしさに顔を俯かせる。
カフェギモーブのマスターである文人さんが笑いながら水の入ったコップを出してくれた。

「そんなにしょんぼりしなくてもいいのに」
「しょんぼり?」

顔を上げて首を傾げると文人さんは自分の耳を指す。その動作で私は自分の耳に触れた。ふわりとした毛並みの感触がする。

「急いででも朝食食べに来てくれるの嬉しいから、ね?」

文人さんの指が耳に触れる。
耳が微かに動いたのがわかった。

「ありがとうございます」
「こちらこそ」

文人さんの指が離れて朝食を食べるのを再開した。


朝食を終えて学校への道を歩く。
振り向き自分の背を見ると黒い尻尾が見えた。それだけ確認すると前を向き歩を進める。

「他のかたは普通なのに私だけ……」

それは浮島神社の神子に稀に現れるものだと教えられた。一定の年齢を過ぎると突如獣の耳と尾が身体に現れる。母様もそうだったと聞かされた。
この町は少し特殊だった。だから私の姿を見ても誰も脅えないし虐げられたりはしない。

「私が気にしていてはいけませんよね」

身体の変化に戸惑うもそれではいけない。
いつしか俯いていた顔を上げて私は学校へ走って向かった。



「更衣さん」
「はい」

放課後。帰り支度をしていると後ろから呼び掛けられた。

「一緒に帰らない?美味しいケーキのあるお店見つけたらよければ行かない?」
「逸樹ちゃんナンパみたーい」
「みたいじゃなくて、そうだよね?」

振り返るとクラス委員長である鞆総逸樹さんがいた。
横からねねさん、ののさんがそう言うと鞆総委員長は二人を見る。

「すみません。今日は父の手伝いをしなくてはいけなくて早く帰らないといけないんです」
「そうなんだ。残念だよ」
「はい、私も残念です。美味しいケーキいただけなくて」

申し訳なくも断ると委員長は気にしないでと言ってくれた。

「逸樹ちゃん残念だねー」
「ねー」
「ちょっと、黙っててくれるかな」

委員長は目を閉じて何だか少し怒っているように言った。
やはり気を悪くさせてしまったのだろうか。

「委員長、小夜がしょんぼりしてる」
「え?違うよ!?更衣さんは本当に気にしないで」

後方から優花さんの声がすると委員長は目を開けて慌てて言う。

「だから、その……」

歯切れ悪く言いかけて、視線を逸らしつつも私をちらりと見た。視線は僅かに横に逸れていて耳を見ているのだとわかる。

「今度は前もって予定聞くから。そしたら一緒に行ってほしいな」
「はい、ぜひっ」

戸惑いながらも視線を合わせて柔らかく笑う委員長に安心した。

「いい雰囲気だね〜」
「逸樹ちゃんらしくないね〜」
「小夜、帰らないで大丈夫なの?」
「あ!そうでした!」

優花さんに言われて机に向き直り帰り支度を再開し、鞄を持った。

「それではお先に失礼します」

皆さんにそう告げるとまた明日と返してくれた。
教室の扉へ向かうと後ろから視線を感じて振り返る。

「……?」

視線の主は同じクラスメイトの時真さんだった。視線が合うと逸らされてしまい不思議に思いながらも教室を出た。

「やはりこの獣の耳でしょうか……」

呟き駆け出す。会話はあまりしたことがないけれど以前からよく見られていた。それが気になった。


もう少しで浮島神社に着く。はずだったのに視界にあるものを捉えて立ち止まった。
道の端に座る小さな……。

「犬っ!」

無意識に駆け寄る。撫でようと手を伸ばして我に返った。

「早く帰らないと……っ」

手を引っ込め、犬さんを凝視する。犬さんは無表情に私を見上げていた。
私が抱いても腕の中に抱えこめるぐらい小さい。尻尾が動いた瞬間触りたい衝動を抑え駆け出した。

「父様のお手伝いをしないと……!」

私を待つ父様を思い、必死に犬さんの事を頭から追い出そうと駆けた。


「父様、ただいま戻りました!」
「小夜、本殿へ来なさい」

石段を駆け上がると父様が佇んでいるのが見え、帰りの挨拶をすると父様がそう告げた。
それは浮島神社に更衣小夜として生まれた私にしかできない務めだった。


浮島神社の巫女に代々伝わる刀を手に森の奥へ進んでいく。
やがて八卦に出た場所である沼へついた。
中央に静かに地蔵が立っている。この場所にそんなものはなかった。

「それに憑いたか」

私が戦うべき敵に呟く。まだ敵である地蔵は動かない。
沼へと入り込み地蔵へと近づき、刀を抜く。鞘を宙へと放ると地蔵から腕が突出した。だがまだ動かない。
刀を構えて祝詞を口にする。これは獣の耳と尾を持つ代わりに与えられる力であり、本来の人以上の力を引き出せる。
普段は人とは違うものがあることに負い目を感じても、この時はそれに感謝すらする。

「っ……!」

地蔵が猛スピードで迫りかわす。そのまま腕を振られ、鋭利な腕から逃れるように跳んだ。宙に跳んだ瞬間祝詞が全て終わる。

「はっ……」

着地をし刀で斬り下ろすが金属音と共に跳ね返った。

「……硬い」

足場も悪く、敵の急所を狙わなくてはならない。不利な状況に間合いを取り、次の行動を考えているうちに地蔵が迫った。

「……くっ」

かわしそこねて首を腕で取られ絞められる。逃れようと何度も蹴るが刀で通じない体には通じない。
段々と意識が薄くなるも身体から力が失われることはなく、刀を構え直し捕らえる腕を斬り落とした。
身体が宙に浮き、地蔵の体を蹴り飛ばす。水音と飛沫を立たせて地蔵は吹き飛んだ。
着地し、刀を構え直すと予想通り地蔵が私に向かって突進してくる。
かわすと地蔵は器用に両腕を地面に突き立て止まった。

「終わりだ」

私の声と後ろから刀で地蔵を突き刺すのは同時だった。
静まり返り、刺した時とは反対に緩漫に抜く。静寂の一瞬のあと血飛沫の音と共に地蔵は倒れた。血が沼を染め、私の顔や身体を染めていく。
しばしその光景を眺め、晴れた夜空の中に浮かぶ月を見上げた。



実験を開始して一日目の夜。小夜は少し苦戦しながらも古きものを討った。
その外見とは不釣り合いな返り血で身を染め、小夜は林を歩いていく。
先程無意識なのか沼を染めていく古きものの血を啜っていた。様子を見ていると特におかしな様子はなく、虚ろな瞳を赤く光らせ刀を鞘に納めて歩き出した。
啜った血が口元に微かに残っていて舌で嘗めとる。腕で更に拭うと赤い光は消えていった。

「綺麗だね、小夜」


「何だ、これは」

実験室へ戻り、扉を閉めると珍しく小夜から話しかけてきた。
理由を察しながら近づき横に佇むと睨み付けられる。

「耳だよ」
「……なぜ獣の耳などつけた」

小夜は人の形をしている。見た目は人と変わらない。
だけど今の小夜は犬の耳と尾がついていた。小夜の髪と同じ黒い毛並みの。

「似合うよ」
「……文人」

指先で耳に触れる。触り心地のいい毛並みを撫でた。
小夜は理由を問うように僕に呼び掛ける。

「実験のためだよ」
「この姿に何の意味がある」

顎に指をかけ小夜の顔を上げさせると瞳が赤く灯った。視線を下げれば小夜に着せた制服の首元の鎖が視界に入った。

「文人……」

赤い瞳で僕を呼ぶ小夜に視線を向けはしてもそれ以上何も言うことはなかった。


モニターの中の小夜は浮島神社に辿り着いた。待機させていた唯芳を見るなり嬉しそうに駆け寄っていく。
ニ、三言会話をすると唯芳が御神刀を受け取った。その瞬間小夜は力が抜けたようにその場に座り込んだ。

「小夜?」
「大丈夫です。先に……父様?」

唯芳が背を向け屈んだ。背に乗るよう言うが小夜は戸惑う。それでも頑なに動こうとしない唯芳に小夜は背に乗った。
その光景は一見本当の父子のようだった。それとも飼い主を慕う飼い犬か。
そうして一日目は終わった。


「おはようございます」
「おはよう、小夜ちゃん。あれ?今日学校休みじゃなかったっけ?」
「え!?」

翌朝。それが当たり前のように小夜は朝食を摂りにカフェギモーブを訪れた。
制服を着ている事は外出着を巫女服と制服しか用意していないから仕方ないとしても鞄を持っているのは学校へ行く姿そのものだった。
 
「間違えちゃったのかな」
「は、恥ずかしいです……」

ドアの前で鞄を両手に持ち恥ずかしそうに目を閉じ俯く。
耳も少し垂れ下がり小夜の心情を表しているようで可愛かった。

「お弁当はないけど朝食はあるから食べていって」
「はい」

声をかけると小夜はカウンター席についた。
だいたいの用意はすませてあり、皿に盛りつけ小夜の前に出す。

「どうぞ」
「いただきますっ」

笑顔で告げると耳が動く。料理を口にするとまた微かに動いてその様子を少し眺めてから珈琲の準備を始めた。


「はい、食後の珈琲」
「ありがとうございます」

小夜が朝食を食べ終わり、カップを出し皿を下げた。
小夜はカップを持ち目を閉じて香りを嗅いでいるようだった。少しの間のあとカップに口をつける。

「……美味しいです」
「ありがとう」
「本当に香りから安心できて幸せな気持ちになります」

微笑みながら語る小夜に手を伸ばす。
すぐに小夜は反応し顔を上げる。見つめられながら頭から耳に向かってゆっくりと撫でた。
幾度かその動作を繰り返すと小夜はカップを置き、身を委ねるように目を閉じて顔を傾ける。
昨夜受けた傷は跡形もなく治っているようだった。深い傷は負っていないから一晩で治るのは確かめなくてもわかっていた。

「お昼も作るからよかったら来てね」
「はいっ」

手を離し告げると小夜は満面の笑みで頷いた。



足場の悪い林を走る。木を跳び移り移動する古きものを見失わないように。

「っ……」

開けた場所に出た瞬間古きものが向かってきて咄嗟に刀で受け止めると飛び退いた。
すぐに古きものが鋭い爪を振るってくる。刀で受けると金属音が響く。
今夜現れた古きものは四肢を持った形状としては人の形に似たものだった。最も古きものに代わりはなく形が似ているだけであとは似ていない。

「くっ……」

隙をついて刀を振るも硬い腕で受け流され、反撃に合い爪が頬を抉った。
一度距離を取るために胴体を蹴飛ばす。
しかしすぐに跳ねるように向かってきて反対に私が蹴り飛ばされ、段差から落ちた。

「はっ……!」

背中から落下した衝撃で息が漏れる。
その隙を見逃すはずがなく古きものが飛び乗ろうと上から跳んできた。
その瞬間身体を打ち付けた衝撃で一瞬混濁しかけた意識がはっきりし、刀で古きものの首を跳ねていた。
血飛沫が上がる中立ち上がると反対に首を無くした古きものの体が地に伏した。
一瞥し刀を振るい血を払う。
酷く高揚していた。治まらないのを感じながら林の間から見える町を一望する。
すると不思議と昂りが治まり、しばらく町を眺めていた。


「小夜、絆創膏を貼った方がいい」
「ほとんど治ってますから大丈夫です」

朝の務めを終え、制服に着替え境内に出ると父様が佇んでいた。
制服に着替える際に取った絆創膏に気づいたのか父様が微かに顔をしかめる。

「いや、怒っているわけじゃない。だからその……」

少し慌てた様子で父様の視線が耳にあるのがわかった。

「万が一化膿でもしたら大変だろう。だから貼ったほうがいい。丈夫といえどやはり女子ならば傷が残っては大変だ」

父様の手が頭に伸び数度撫でてくれる。父様の優しさを感じて嬉しくも困らせてしまった事に気づいた。

「父様がそう仰るなら貼り直してきます」

父様の手が離れて、一度家に戻ろうと踵を返した。

「朝食を食べられなくなっても困るだろう。貼ってもらうといい」

父様にそう言われ、カフェギモーブへ向かった。


「筋になってるけど薄いからこれならすぐに治るよ」
「ありがとうございます」

朝食を食べ終わると文人さんに言い出す前に文人さんから絆創膏を差し出してくれた。
やはり頬だと目立つのだろう。思っていたよりも昨晩の古きものの爪で深く傷つけられていたようだった。

「すみません、貼っていただいて」
「いいよ。むしろ触れたからね」
「え?」
「はい、おしまい」
「あ、ありがとうございます」

隣で屈んで絆創膏を貼ってくれていた文人さんが体勢を直した。
見上げると文人さんは笑みを浮かべてカウンター内に戻っていく。

「こちらは?」

目の前に出された小皿には桃色の小さな四角形が二つ載せられていた。
お皿に載っているということは食べ物なのだろうか。

「これはね、ギモーブっていうんだ」
「こちらのお店と……」
「同じ名前。甘い洋菓子なんだ。きっと小夜ちゃんがいつも飲む珈琲と合うよ」

文人さんは話しながら珈琲を淹れ終わり、目の前にカップが置かれる。
小皿とカップを交互に見遣る。

「警戒、してるのかな?」
「そんなことはないです……!ですが突然出していただいたので戸惑っているのでしょうか?」

自分でもなぜ躊躇っているのかわからなかった。
でも耳は感情を表しやすいようで警戒してると思われてしまったようだった。

「毎日お務め頑張ってるからご褒美だよ」
「ご褒美、ですか?」
「うん、唯芳さんがよくやってくれてるって話してるから」

文人さんの言葉に躊躇いながらそっと小さな四角形を取った。柔らかい感触で力を込めたら潰しかねない。

「いただきます」

口に含むと食感も弾力がありながらふんわりしていて甘かった。

「どう?」
「美味しいですっ!」
「よかった」

もう一つも口に入れ味わう。不思議な食感、不思議な味。そして確かに珈琲の苦味にもあっていた。


「いってらっしゃい、小夜ちゃん」
「いってきます」

告げてカフェギモーブから出ると扉が閉まった。数段の階段を降りながら先程の文人さんの言葉が過った。

『ギモーブの感触はあるものに似てるんだって』

訊いても文人さんは答えを教えてくれなかった。知らないのかもしれない。でも何となく知っている気がした。

「ご褒美……」

ご褒美と言われ出されたギモーブ。呟きながら貼ってもらった絆創膏に触れる。
階段を降りきり、学校へ向かう道に身体を向け歩き出した。



放課後。皆さんと一緒にカフェギモーブを訪れた。以前委員長が言っていた美味しいケーキのあるお店というのがカフェギモーブとのことだった。

「でも小夜ちゃん、ちゅーには反応するんだねぇー」
「だねぇー。小夜ちゃんも乙女ってことかぁ」
「……何で昼に終わった話を蒸し返して更に僕を見るのかな」
「小夜、それ少しもらっていい?」
「はい、どうぞ」

いつも座るカウンター席には私一人ではなく、皆さんと並んで座っていた。
私の右隣には優花さん、左隣にはねねさんが座っていて並んでののさん、委員長が座っている。
優花さんにケーキの載った皿を差し出すと一口に切り取り食べた。すると優花さんのケーキの皿も差し出される。

「あたしのもどうぞ」
「ありがとうございますっ」

こうしたやりとりは初めてではないはずなのに嬉しくて声が弾むのがわかった。

「小夜ちゃんは完全にスルーだね」
「スルーというか聞こえてないね。頑張れ、逸樹ちゃん」
「頑張れって何回か言われてるけど僕には面白がってるようにしか聞こえないよ」

優花さんのケーキを一口もらい口に入れた。

「美味しいんだ」
「はい、とっても!」

そう言うと優花さんの手が伸びて耳にそっと触れた。見つめていると優花さんは微笑み指先で耳を数度撫でてくれる。優しいその感触が嬉しかった。

「もう一口食べる?」
「でも」
「こんなに喜ぶ姿見せられたらまた見たくなるから、だから食べて」
「……ではいただきます」

そんなにわかりやすいだろうかと気恥ずかしくなりながらもう一口切り取りフォークで刺した。

「小夜ちゃん、ちゅーに反応したの?」
「……?」

その一口を口にした瞬間後片付けをしていた文人さんが近寄ってきて訊いてきた。
一瞬何を言われたのかわからずにフォークを口にしたまま首を傾げる。

「えっ」

言葉を理解してフォークを口から離し声を上げた。その反応に文人さんは驚きながらも笑った。

「年頃の女の子にしては反応がウブだよね」
「ちゅーだもんね」
「君たちがすれてるだけなんじゃ……」
「「逸樹ちゃん、何か言った?」」
「え、え、え、あの」
「小夜、とりあえず落ち着いて珈琲飲んだら?」

優花さんに言われてフォークを置き、珈琲を飲んだ。
昼食時に皆さんにギモーブの感触の話をした。するとののさんとねねさんがキスの感触だと言い、慌ててしまった。

「小夜ちゃん、ファーストキスもまだっぽいしねー」
「そんな言い方はないんじゃないかな。というか余計なお世話だよ」
「頑張れ、逸樹ちゃんっ」
「だから……」
「そうなの?」
「え?」

カップの中身がほとんどなくなり顔を上げると文人さんが問いかける。

「初めてのキス」
「えっ!?」
「おっと」

過剰に驚いてしまい持っていたカップが手から離れた、と思ったら文人さんが前のめりになりカップを受け止めていた。

「すみません……!」
「大丈夫。驚かせすぎちゃったみたいだね。反応が可愛いからつい、ね」

言いながら頬を指先で撫でて体勢を戻した。

「ここでもフラグが……」
「逸樹ちゃん、ピンチだねっ」
「何で頑張れと言い方が似てるのかな……」
「あんた達その流れ飽きない?」

皆さんが会話をする中、私は文人さんを見つめていた。文人さんはそれ以上は何も言わずに背を向けて珈琲を淹れているようだった。


その日、パン屋のご主人がいなくなった知らせを聞いてもしかしたら古きものに狙われたのかもしれないと探したけれど見つからなかった。
数日後帰らないままだと聞き、私は守れなかったのだと悟った。あのパンの香りはもうこの町にはしない。



三荊学園の保健室でベッドに眠る小夜の頭を軽く撫でながら窓の外を見ると先程まで降っていた雨は上がっていた。

「やっぱり古きものの話も引きがねになるのかな」

自習とし怪談話をする流れとなった。小夜の記憶を戻そうと一部のメインキャストが企てたのはわかっていた。
でもまだ小夜の記憶は戻らない。

窓からは小夜がよく昼食を食べている中庭が見え、先日小夜が登った木が見えた。

「身体能力はそのままだから木も簡単に登ったね」

モニターで見ていて小夜が犬と言っていたのが気になった。画面のどこにも犬などいなかったからだ。犬の耳と尾を生やした少女はいても犬自体はいない。
その後小夜の相手の時真役の彼が落下する小夜を助けに行った。その光景を思いだし少し笑う。

「あの高さなら問題ないからね……でも上に載せるのはいただけないかな」

彼の上に着地してしまった小夜は彼の上に載ったまま謝罪した。そもそも彼はどうやって助けようとしたのか。

「“好き”か」

彼との会話で七原文人に対する感情、つまり設定している感情から小夜が口にする“大好き”について彼は指摘した。全てをわかっていて指摘している。彼は実験前日に訪れ、小夜が僕に向ける感情を垣間見たはずなのだから。

「ん……」

小夜の耳が微かに動き身動ぎする。仰向けだったのが横向きになりうっすらと目が開いた。

「小夜ちゃん?」
「ふみ、とさん」

除き込むとまだ虚ろな瞳なのを確認して頭から耳にかけてゆっくりと撫でる。

「まだ寝ていて大丈夫だよ。こうして撫でているから」
「……はい」

少しだけこちらに身体を擦り寄らせ再び目を閉じた。
柔らかな毛並みの耳を軽く撫でて寝息を確認すると席を立った。

「待たせたね」

保健室から出ると双子の片割れが壁に寄りかかり待っていた。
僕が出てくると壁から背を離しこちらに駆け寄る。

「あの、わざとじゃなくって〜」
「いいよ。その代わり今日から順番にメインキャストにはいなくなってもらう」

そう告げると双子の少女は怯える表情を見せた。

「そういうシナリオだから。小夜が神社に戻って少ししたら行ってくれるかな」
「あ、そうですよね!やだー、七原さん読みにくいから〜」
「小夜が戻ったら連絡するから待機してて」

少女の軽口には付き合わずに会話を切り背を向け歩き出した。
時真役の彼との会話で何かしてしまったか悩む小夜が僕に相談した。
まさか自分の記憶を戻させようとしてるとは思わないだろう。

『文人さんの珈琲、飲むと落ち着きますから』

段々とおかしいと思いながらも小夜はまだ思い出さない。記憶を戻そうとする度に阻まれる。
そして珈琲を飲んで落ち着くと嬉しそうに言う。

「いっそ愛玩動物のようにそばにおけるようにすればよかったのかな」

誰もいない廊下を緩やかな足取りで進みながら呟く。そんな自分の言葉に嘲笑した。
あまりにも愛らしく懐く犬のようでずっとそばにおいておきたくなる。
でもそれは決してしないことを自分でもわかっていた。

「次のシナリオに進もうか、小夜」

昨夜素手で古きものを倒した小夜を過らせながら呟いた。



今日からシナリオが一段階進み、メインキャストを消していくという指示が出された。
メインではないいわゆるエキストラは何人か消えていたが俺たちメインキャストにどうなったかなど報告はされないし、知りたいとも思わない。

「ねぇ、時真くん」
「何だよ」

学園で待機を言い渡され教室にいると双子の片割れが話しかけてきた。

「エキストラ、死んじゃったのかな」
「お前は……どこで聞かれてるかわからないんだぞ」

不穏な動きをすれば怪しまれる。
双子、先生役の女と利害が一致し多少の協力関係にはあった。早くこんな茶番劇を終わらせ、金を手に入れたい。だから小夜の記憶が戻るよう揺さぶりをかけたりしていた。

「大丈夫だよ、ただの世間話だから」

双子の目が細まる。かえって声を潜めたりしたほうが怪しまれるということだろう。
馬鹿にされたように感じ余裕を見せるようにわざと背もたれに寄りかかった。

「片割れの番だから心配なのか?」

まずは双子の片割れから消えることになった。
小夜が帰宅したあと神社に向かい、残りは学園に待機。動かないように隔離したのだろう。滞在している建物まではそれなりに距離があるためその間に不用意に探られたくないからだろうか。

「心配だよねぇ」
「この分だと次はお前だからな」

双子の片割れの発言からは自分がこのあとどうなるかが心配だというのが透けて見えた。
特に否定もせずに片割れは笑う。

「フラグは立ててるしね。あんたは最後の方でしょ。一応小夜の相手役なんだから」
「ふざけんなよ。あんな得体の知れない化け物知るかよ」
「満更でもないんじゃない?あんた、実は動物とか好きでしょ」
「……あんなの化け物に犬耳つけただけだろ」

悔しいが否定できなかった。人ではないことは説明されていて化け物だと思っていたがあの犬耳と尾は反則だ。感情が表現されつい撫でたくなってしまう。
相手役という設定だからといいきかせるが自分でも境がわからない。だが金は必要で話は別だ。

「そんなこと言ってる君も可愛いと思ってるんじゃない?」

いつの間にそばにきていたのか俺の恋敵役の男が立っていた。
何のことかすぐに結びつかなかったが片割れが図星だったのか言葉に詰まっていた。

「何だ、お前も人の事言えないのかよ」
「うるさい!お、女の子は可愛いものが好きな方がウケいいし?」
「それ、小夜が可愛いって言ってるようなものだよね」
「あんたは黙ってて!もういい、トイレ行ってくる。すみませーん!トイレ連れて行ってくださーい!」

大声で教室の出入口に佇む私設兵に話しかけ歩いていってしまった。

「お前どこ行ってたんだよ。それに先生役の奴ともう一人の女は?」
「網埜役の人はさっきまで僕と今後の説明を受けてて、そのあとトイレに。先生役の人は七原さんに何か言いにきてたね」
「七原文人と話してたのか」
「“今後の説明”だよ」

引っ掛かるがもう動きのないシナリオは動き出した。あとは小夜の記憶が戻ればいい。

その後、メインキャストの双子の姿を一時期見なくなったがすぐに戻ってきた。今までかぶっていなかった揃いの帽子をかぶって。
俺はその時はさして気にはしなかったがすぐに意味を知ることになる。



H24.8.31
H24.9.4
H24.9.9
H24.9.13
H24.9.17
H24.9.25
H25.1.23