前日


実験の開始は明日からだった。小夜の記憶の上書きを終えて小夜は眠っていたはずだった。
明日の朝になれば更衣小夜として生活を始める。なのに小夜はいなくなっていた。


町の各所に設置していたカメラから湖畔にいるとわかり唯芳に迎えに行かせ、僕はカフェギモーブの前にいた。

「……小夜」

名前を呟いて浮島神社へ続く石段を見上げる。
変わってくれればいいと思う。変わらなければ手には入らないだろう。
勝者には褒美を、敗者には罰を。実験でもあり小夜と僕の勝負。

「歌?」

夜の闇に彼女を思い出すように空を見上げていると微かに歌声が聞こえてきた。
聞き覚えのある声。でも一瞬否定した。

「お月様見上げて家へと帰る、父様お迎え来てくれました、とってもとっても幸せです」

すぐに歌声の主の姿が見え、凝視してしまう。

「ふ、文人さん!?」

小夜は僕と目が合うと立ち止まり目を見開いて驚いた。
設定した通り違和感のないように話しかける。

「こんばんは、小夜ちゃん。こんな夜にどうしたの?」
「その、お月様が綺麗だったので散歩に行きましたらいつの間にか湖にいて……」
「歌いながら?」
「やっぱり聞こえていたんですね……恥ずかしいです」

からかうように問うと小夜は言葉通り恥ずかしそうに俯いた。
小夜に近寄り手を伸ばす。

「文人さん?」

頬に触れようとして手を止めた。
小夜は不思議そうに見上げてくる。小夜の中では幼少期から知っている隣人という設定だ。触れても問題はないだろう。でもやめておいた。

「歌の中に父様お迎えきてくれましたってあったけど唯芳さんは?」
「先に帰るように言われました。委員長とお話されてたみたいです」
「委員長?」
「はい、クラスメイトの鞆総委員長です」

迎えに行かせたはずの唯芳が見当たらず訊いてみると小夜は鞆総逸樹役の彼に会ったようだった。
確かに夜間の外出は開始日から禁止している。だから前日である今夜は違反にはならない。何より小夜の中に設定が入ってることが確認できてよかったかもしれない。

「そうなんだ。でも夜遅くに黙って一人で外出したら駄目だよ」
「はい……父様にも心配をかけてしまいました。これからは必ず告げてから行きます!」
「できれば一人ではやめたほうがいいよ。小夜ちゃんは女の子なんだから」
「夜のお散歩に性別は関係あるのでしょうか?」

小夜は本当に理解できていないようで首を傾げる。そんな小夜に苦笑した。

「夜の散歩は楽しかった?」
「はい!とっても!」

歌をうたうぐらいだ。楽しいのは伝わってもただ夜に散歩をするということがなぜそんなに楽しいのかわからなかった。

「小夜ちゃん、散歩好きだっけ?」
「好きなんでしょうか?歩いて父様や文人さん、クラス皆さんの事、暮らすこの町の事を考えて散歩するのは楽しいです」

小夜は嬉しそうに語り空を見上げた。まるで慈しむように月を見つめて満面の笑顔でこちらに向き直る。

「お散歩好きなのかもしれません。町を歩いてると楽しいですから」
「……ずっといる町だからね」
「はいっ」

小夜の記憶の上書きは十分すぎるほどに確認できた。
ただ予想以上に小夜はここに思い入れがあるように見えて、真実を知っていると奇妙に思える。

「じゃあ今度一緒に散歩してもいいかな?」
「いいんですか!?」
「うん、小夜ちゃんが夜に散歩したい時とか」
「はい!楽しみです」
「僕も楽しみだよ」

小夜は嬉しそうに笑う。そんな表情を向けられる事が新鮮だった。

「そろそろ帰ったほうがいいかな。ごめんね、引き留めて」
「いいえ!お話できてよかったです」
「明日もお弁当と朝食作って待ってるよ。あと珈琲」
「はい!ではおやすみなさい」

勢いよくお辞儀をしてそのまま石段に駆けていった。
小夜の結われた長い髪が靡いて毛先を掴むように手を伸ばした。でも掴めるはずもなく小夜は石段を駆け上がっていく。

「おやすみ、小夜」

聞こえないとわかっていた呟いた。やがて鳥居の奥に小夜は消えた。

そのまま唯芳の到着を待つことにする。そして小夜の中から今夜の記憶を消した。



H24.8.18