忘却:1


気づけば私は七原という方の屋敷にいた。


目を覚ますと見慣れぬ天井が映り、横には人影があった。
段々頭がはっきりとしてきてその人影が男性なのだとわかる。柔和な雰囲気の男性が笑みを浮かべて私の頬に触れた。


目覚めてから数日。
屋敷内は見て回っていいと言われ廊下を歩く。
歩きながら目覚めた時の事を思い出し、立ち止まりと窓を見つめた。

「……更衣小夜」

記憶は一切なかった。私が身につけていた服の中に名前がわかるものがあったらしく、教えられた。

『僕の名前は七原文人。この家の者だ』

あの男性は七原文人という名前らしい。記憶がない私をここに置いてくれると言ってくれた。

「小夜さん」

後ろから呼び掛けられ振り返ると窓に映る私と同じ歳ぐらいの女性が駆け寄ってきた。
この屋敷に来て私の身の回りの世話をしてくれている人だった。記憶がないとわからない事も多いだろうとあの男性がそばにこの女性をつかせてくれた。

「お散歩ですか?」
「はい」

私と同じ長い黒髪。私は二つに結い、彼女は一つに結っていた。

「そういえば……」
「はい」

ふと思いつき彼女を見つめると、彼女は首を傾げた。

「貴女の名前を教えていただけませんか?」

彼女の名前を知らない事に思い当たり問いかける。
すると彼女は困ったように返した。

「申し訳ありません。文人様の許可を得ないと名乗れないんです」
「そうなんですか……残念です」

この屋敷の主らしいあの男性の顔が浮かぶ。
彼女とは一緒にいる事が多いだけに名を呼びたかった。けれど主の命令では仕方がない。

「小夜さんを探していたのはおやつの時間をお知らせしたかったんです」

俯く私に気遣ってか彼女は私の両手を取り、明るい声で告げた。
顔を上げると笑みを向けてくれている。

「楽しみです。一緒に食べてくださいますか?」
「はい、もちろんです」

自然と私も笑むのが自分でもわかった。
彼女は片手は繋いだまま私の手を引いていってくれた。


その日は珈琲ではなく、紅茶が出された。彼女が美味しい茶葉が手に入ったからと出してくれて嬉しかった。


翌日。私は屋敷内を散歩していた。
少し頭痛がする。でも寝ているよりは身体を動かして気を紛らわせたかった。

『体調が悪くなったらすぐ言ってね。そばにつかせる彼女にでも誰にでもいいから』

男性に言われた事を思い出すと鋭い痛みが走った。
すぐに治るかと言わないでいたけどあとで頭痛の事を言おう。

「ここはどこでしょう?」

気づけば見慣れぬ場所にいた。とは言ってもどこも似ていて違いはあまりないけれど、今まで歩いてきた場所と何かが違う気がした。
ふと並ぶ扉を見ると一つだけ扉の大きさが違う部屋があった。
考える前にその扉に身体が引き寄せられていく。
扉の取っ手に手をかけそっと押し開いていくと薄暗い部屋が隙間から見えた。

「あれは……」

薄暗い中に浮かぶ赤い物。
すぐに扉を閉める。扉にもたれかかるようにしても支えきれず床に膝をつく。

「……っ」

あれは私の血。

「私の、刀」

光の刀が過る。
痛みで閉じていた目を開けると痛みは引いていた。

「……文人、私の記憶を」

呟くように口にする。記憶を消されたのだ。
そして記憶は戻った。
立ち上がり周りを確認すると人はいなかった。今ならここから出ていけるかもしれない。
窓を見つめる。景色からここが地上より上に位置する階だとわかるがこのぐらいの高さなら問題はない。

『小夜さん』

窓に映る自身を見て、私とどこか似ている風貌の女を思い出す。ただ見かけの年齢と髪だけかもしれない。
だが記憶をなくしていた数日の記憶が私の足を止めさせる。
そして私は窓に向かうのではなく廊下を歩き出した。

「小夜ちゃん、どうしたの?」

角を曲がって身体が強張る。そこにはあまりにも計ったかのように文人がいたからだ。

「……散歩していたら迷ってしまって」
「そうなんだ。どこも似てるからね」
「あの、あの女性は今どちらに?」

今文人に記憶が戻った事がわかってしまえば捕らえられるだろう。
不本意だが記憶が消された私を演じる。

「下の階じゃないかな。そろそろおやつの時間だからね」
「そうですか」

こうして会話をするのは奇妙な感覚だが今は仕方ない。
早くこの場を立ち去るべく文人を横切り階段を降りた。

「小夜さん」

すぐに女を見つけ、駆け寄る。腕を掴むと女は驚いた顔をしたが構わずに顔を寄せて声を潜めた。

「ここから出る。来い」
「え?」

女が口を開いたのと銃声が響いたのはほぼ同時だった。
女が床に崩れ落ちていきもう一度銃声が聞こえると掴む手と背に痛みが走った。撃たれた衝撃で手が離れてしまい女の身体は床に伏す。
すぐに身体が痺れを感じ、床に片膝をついた。

「小夜、駄目だよ」

後方から文人の声がし、前方には見慣れた鬼の面をつけた文人の私設兵がいた。

「……文人」

今はあの半面もいない。ならば逃げ出せるのではないかと思うが身体が何かで縛られたように動かなくなる。

「呪符か」

かろうじて顔だけは動き呟きながら振り向くと呪符を私に向けている文人が歩いてきていた。

「今の血を抜かれた君なら僕でも捕らえられるからね。残念だったね、小夜。彼女を置いていけば逃げられたかもしれないのに」

文人は私の横までくると屈み、私の頭を撫でながら前に倒れる彼女に視線を向けた。

「なぜ撃った」

怒りが沸き立つ。撃たずとも私を捕らえられたはずだ。なのに私の目の前で撃たせた。

「……小夜、さん。ごめんなさ……」

消え入りそうな声で呼ばれたが銃声に掻き消された。そして彼女の息がなくなった事を悟る。

「彼女は契約違反をした」
「なぜ……殺した」
「紅茶だよ、小夜」

名も知らぬ彼女を見つめる。赤い血に染まってしまった彼女を。短い時間でも優しく、温かく接してしてくれた彼女。

「綺麗だね、小夜」
「……文人っ」

文人を睨む。もう口をろくに動かせず怒りを叫びにさえ代えられない。
やがて前に倒れこみそうになるのを引き寄せられ文人の腕に倒れこみ意識は途絶えた。



H24.7.30