ぬるがうちに


会談が終わり駐車場へと向かう。
後ろについている優花くんが明日のスケジュールを告げていく。耳に入れながらも返事はしなかった。

「文人様、お疲れ様です」
「小夜は大丈夫?」
「何も問題ありません」

車に待機していた九頭が姿を現し後部座席のドアを開ける。
暗い車中に乗り込み、手を伸ばすと細い指が僕の指を掴んだ。

「小夜」

長い髪を二つに結わえ、動きにくそうな丈の長いワンピースを身に纏っている少女。
表情はなく戻ってきた僕に顔を向ける。指から手が離れると車が動きだし、何も言わない小夜の頬を撫でた。


現在生活している高層ビルに到着し、九頭が開けたドアから出ると反対に回りドアを開けた。

「おいで、小夜」

手を差し出すと手が軽く添えられ小夜が車から出てくる。

「九頭、今日はもういいよ」
「ですが」
「あとは書類確認だけだから。また明日ね」
「おやすみなさいませ、文人様」

九頭が頭を下げたのを見届け小夜の手を取ったまま部屋へ向かった。


小夜の記憶は戻らなかった。数人のメインキャストに揺さぶりをかけられても小夜は戻らなかった。
もう終わりの時かとメインキャストを古きものに殺させても小夜は虚ろな瞳で見ているだけで、その瞬間小夜は敗者になった。

『敗者の君には罰を、勝者の僕には褒美を』
『ばつ……』

境内の地面に座り込む小夜が僕を見上げる。

『憎い相手の側で自由を奪われて生きるのは辛いだろうね。大丈夫、ちゃんとご飯はあげるから』

僕を見つめる小夜の瞳には以前のような憎悪はない。

『ほうび、は……』
『僕の褒美は』


机にある書類を捲っていく。
会談とは違い小夜がそばにいるだけで面倒な仕事も幾分かは違った。
膝の上に座る小夜は人形のように動かずぼんやりしている。
あれから古きものの血を与えても小夜は戻る気配もなく、古きものを前にしても戦う素振りも見せなかった。
記憶の上書きをしなくても良くなったかわりに言葉を発しなくなった。

「小夜、お腹空いてない?」

僕の問いかけに小夜は顔を上げ首を傾げる。
古きものの血の摂取量も減った。もしかしたら与えなくても小夜は生きるのではないかという考えが過ったが試す事はしない。

「小夜?」

小夜の身体が身動ぎ腕が上がる。指先が頬に触れて微かに撫でた。

「たまにこうして触れてくれるね」

小夜と同じように指先で頬を撫でる。
浮島での生活中も小夜を幾度か撫でた。嬉しそうにする表情が過る。
小夜のもう片方の腕が上がり首に回った。
ゆっくりとしたその動作を見つめ、自分は小夜に抱きしめられてるのだと遅れて気づく。

「小夜?」

頭を撫でながら呼び掛けても返事はない。
常に共に行動した。一緒にいられない時は小夜を待たせる。小夜は黙ってついてくる。
出会った頃の小夜はもういないかのように小夜は僕のそばにいる。

『そんな人形すぐに飽きる』

これはこちらに戻ってきて聞いた従兄弟の言葉。
頭の片隅でそうかもしれないと思う自分がいた。
あの赤い瞳を向ける小夜はいない。小夜は敗者で僕が勝者になったのだから。

首に回された両腕の力が抜けていく。
顎に手をかけ上向かせ親指で唇をなぞる。

「綺麗だね、小夜」

僕だけに向けられる瞳は赤く染まっていなくても綺麗で目を離せない。
褒美は小夜、君だ。


目を開けると見慣れた暗い室内が視界に入る。
どうやら書類を確認しながら眠ってしまったようだった。
確認するまでもなく小夜はいない。

「夢、か」

呟いてみると現実感が増す。
元からいないはずなのに夢を見ていたせいか酷く空虚に感じた。

「毎日夢に来てくれたら眠るのにね、小夜」

昔夢に出てくるのは相手が自分を思っているからだと言われていた時があったと小夜と話した。
小夜は僕を探している。殺すために。
今も僕の事を考えているだろう。
勝者は小夜で、敗者は僕というのが現実。

「もしも君が敗者ならどうなっていたのかな」

夢を思い出しながらもう一度目を閉じた。
彼女がいつでも会いに来れるように。



H24.11.27