伝心


廊下の曲がり角に身を潜み待つ。
手にはバケツを持ち準備はできている。

「来たか」

呟き壁に背を預け目を瞑り気配と足音に集中する。

「……っ」

見計らってバケツに入れておいた水をかけた。

「小夜……そこにいるのは気づいていたけどまさか水をかけられるなんてね」

水浸しになり髪から雫を滴らせて文人が苦笑いを浮かべた。
その姿を確認して空になったバケツを足元に起き、脇に置いていたモップを手にし床を拭き始める。

「小夜?」
「何だ」
「怒ってる?」

文人の足も気にせずに水浸しになる床を拭いていく。さほど床には水は零れずすぐ終わりモップを空のバケツに入れた。

「浮島での私に水をかけようとしたから仕返しだ」
「あれは小夜に涼んでほしかったんだよ」
「それだけではないだろう」

睨み付けながら言うと文人は言い訳もせず無言で笑うだけだった。
モップを入れたままバケツを持ち上げ文人に背を向ける。
歩き出すと後ろから文人がついてきているのがわかり振り返る。

「歩くな。床が濡れる」
「床は後始末するんだね」
「そのままにはできない」
「僕は?」
「自業自得だろう」

前を向き歩き続けた。
浮島でのある出来事を思い出した。文人にホースで水をかけてもらった。だがよく考えなくてもあれは私に水を掛けようとしたんだとわかる。私が避けて僅かに残念そうにしていた表情がなぜか記憶に焼き付いていた。あの時の私には表情の意味はわからなかったが今の私にはわかる。

「でもタオルで拭いたし」
「それも目的だっただろう」
「あの日は暑かったけど今日は暑くないよ」
「私にどうしてほしいんだ」

足を止め振り返ると文人も足を止めた。
ずっと話しかける時点で何かあるのだとわかり、しかしはっきりとは言わない事に苛立つ。

「着替えを手伝ってほしいかな」
「あの時私は帰宅して自分で着替えた」
「拭くより着替えたほうが今は早いから」
「……髪は拭く。着替えは自分でしろ」

妥協をして提案したが文人は譲ろうとする気配がなかった。
文人に背を向けて歩き出す前に口を開いた。

「食堂でならいい」


「せっかく僕の部屋に呼べる機会だったのに残念だな」

モップとバケツを片付け食堂で待っていると文人がタオルとシャツを持って現れた。
仕方なくシャツを脱がすために留め具を外していこうとすると文人が微かに笑って身体が動いた。

「そう言いそうだからここを指定した」
「部屋に来るの嫌だった?」

その質問には答えない。文人はわかっていて聞いているとわかっているから。
全ての留め具を外し前を開く。

「後ろを向け」

言われるがままに文人は私に背を向けた。襟首に触れて脱がしていく。
シャツが水で身体に張り付き通常より脱がしにくい。

「腕を曲げるな。余計脱がしにくい」

仕方ないので片腕ずつ脱がせていく。片腕が抜けて半身にシャツがかかった状態になる。
こうして文人の素肌を見る事はあまりなくて微かに視線を逸らしながらもう片側も脱がせていった。

「濡れてると気持ち悪いね」
「仕返しにはなった」
「でも小夜に着替えさせてもらえるからいいかな、いたっ」
「腕を早く通せ」

文人の言葉を遮るように腕に無理矢理服を通そうとした。
結局仕返しにはならなかった気がするが嫌がらせをしたかったわけではなかったからこうなって良かったと思った。
シャツを着せると今度は何も言わずとも文人はこちらを向く。前が開いたままのシャツが視界に入る。

「ここからはいいだろう」

そう言っても文人は動かずに見てくるため仕方なく留め具をつけていった。
凝視されながら無言で全てを留める。

「座れ」

タオルを手にし椅子に座った文人の頭にタオルを被せ拭きはじめる。
あまりした事がないため力加減がよくわからない。すると文人が身体を小刻みに揺らして小さく笑いだした。

「何がおかしい」
「いや、小夜の指がくすぐったくて」

文人に言われて少し力を入れて拭いてみる。

「小夜の口調好きだな」
「突然何だ」
「後ろを向けって言われて向いたり座れって言われて座ったりすると何だか……」

言葉が途中で区切られた。タオルを頭から取ると髪が乱れていて手で整えていく。柔らかい髪が指先に心地よかった。
文人は伏し目がちに私の胸あたりに視線を向けるだけでそれ以上何も言わない。

「終わりだ」
「ありがとう、小夜」

終わった事を告げると文人が見上げてきて笑んだ。

「先程は何と言おうとした」
「先程?」
「私に座れと言われて座ったりすると何だ」

追及されるとは思わなかったのか微かに驚いた表情を見せて視線を外した。
すぐに視線を戻すと片手が握られる。

「小夜に言われると何だろうね。安心するのかな」
「……おかしな奴だな」
「うん、自分でも不思議だ。でも」

言葉が区切られてもう片方の手も握られ強く引かれると前屈みになった。

「小夜だからだよ」

私は何も返せなかった。何と伝えればいいのかわからなかった。
近づいた文人の顔は笑みを浮かべていて、私も僅かでも笑えていたらいいと思った。
私自身に笑えていたか確認はできない。伝えられる言葉が見つからないからせめて表情で伝えられたら。



H24.7.20