続・猫


風呂場の縁に小夜を座らせ膝をつき屈み、桶に湯を入れた。
土の付いた足を桶に浸す。
小夜は特に抵抗することなくされるがままだ。

「……訊かないのか」

問いなのか曖昧な呟きだった。
足についた土を指で擦り取る。小夜はこの洋館で暮らすようになって初めて外に出た。窓の外をよく見ていたのは知っている。
色んなものへの目眩ましとして結界は張っていても物理的な施錠はしていない。開けばどこからでも外に出ることができる。でも小夜は今まで開ける事はなかった。
そして今日開いた。
窓の外で何かを凝視している小夜を見つめ、視線の先を辿ると一匹の黒い猫がいた。

「なぜ笑う?」
「さっきの小夜と黒猫の光景を思い出したら、ね」

一通り土を落とし終わり桶を足から外し見上げる。
僕の返答に納得していないような表情に笑いかける。
その直後小夜は身体を後ろに倒し浴槽の水の中へ。

「小夜?」

綺麗に身体を倒し水中に入り込んでしまい対応が遅れる。
呼び掛けると小夜は顔を出した。

「お湯沸かしておけばよかったね」

小夜がお風呂に入りたいわけではなかったのはわかっている。
でも小夜の行動の意図がわからずそんなことを言ってしまう。

「文人」
「な……っ」

強い眼差しに見つめられ、“何?”と返そうとしたら冷たい水が顔にかけられた。反射的に目を閉じてしまいすぐに開ける。
髪から水滴が落ちる。一瞬だったのに予想よりも水を多くかぶったみたいだ。

「ははっ……」

何だかおかしくて声に出ていた。

「浮島の時もそうやって笑っていた」
「え?」

そうだったろうか。そうかもしれない。
小夜といる時、小夜がすることはおかしくて、楽しくて……舞台の上で台本にないのに笑っていた。

「浮島地区はあの時を再現して残してあるんだ」

小夜には言わないでいた。案の定小夜は驚いて目を見開く。

「何のために?」
「何のためになのかな……」
「行けばわかるのか」

意外な返答に今度は僕の方が驚く。
水に浸り頬に張り付いた髪を手を伸ばして指でそっと払った。

「……そうかもしれない」
「ならば共に行けばいい」

共にという言葉に夢でも見ているのではないかと陳腐な事を考えてしまう。
これが現実だと認識している。実感もしている。でもどこかで諦観してもいた。
いつか小夜は僕の元から離れる。もしくは僕が此世からいなくなる。

「っ……小夜」
「なぜ私が外に出た事を問わない」

思考を中断させるように再び水をかけられる。
今度は呟きではなく確かな問いかけだった。

「小夜を縛っているわけじゃない。僕達は利害が一致しているだけ。それもいつまでかはわからない」
「私はお前が人を傷つけようとしなければいい」

それはいつまで有効なのだろうと考えることがある。

「お前は何を求めている、何を望む」
「僕の事を訊くなんて小夜は変わったね」

最初ならありえない。次第に変わっていった。
だから小夜は外に出たのだろう。

「君が欲しいだけだよ、小夜」

変わらない。出会った時から。
しばしの沈黙のあと小夜が勢いよく立ち上がった。服が張り付いて当然だけれど水浸しだ。

「私は物ではない」
「うん」
「だが共にならいる事はできる」
「……うん」

頷き立ち上がると小夜に手を差し出す。
重ねられた手は水に浸ったせいか冷たかった。でも重ねると不思議と次第に温かみを帯びたように感じた。



H25.5.26