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呼吸をしなければいけないのに。
生命維持ができないほどに疲弊し境内への階段を上るだけで精一杯だった。

「っ……はっ、ごほっ、は、はっ」

最後の段を上がるとそのまま前へ倒れていきその衝撃で息を吸い込むと酷く噎せた。
私の中を埋め尽くすのは"何だろう、これは?"という疑問。
病院で逃げろと言われ突然撃たれ、隠れ、走り、息を殺し、さ迷い、辿り着いた。

「く……っ」

涙が流れる。感情が流したものではない。生きていることを確認したくて身動きがろくにできない身体が熱を求めた結果流した涙だ。顔についた傷を伝うと染みてまだ生きているのだと実感できた。
ずっと響いていた耳鳴りが止んでいき、呼吸が落ち着いていく。静まり返った境内に足音が響く。隠しもせず宣告するように淡々と近づいてくる。

「梨花ちゃん?」

死んだはずの者の声がする。黒の高いヒールの靴が真横に並び屈み込んだ女が覗き込んでくる。

「ごめんなさいね。入江先生が裏切ると思わなかったから作戦が変わってしまったのよ」

必死に入江に逃げろと言われすぐに察せなかったことを後悔する。でもこんな子供がすぐに危機感なんて持てない。今もなぜ私がこんな目にあっているのという疑問で頭が埋め尽くされている。

「よかった。貴女の死亡時刻がわからないと計画が成り立たないのよ」

この女が死神に見えた。笑みを浮かべ私に語りかけてくる外界の女。閉ざしておくべきなのだとどこかで誰かが囁く。信じるべきではないのだと。お前はこの村の女王感染者なのだから。この村の理を曲げるなと。

「さあ、梨花ちゃん。行きましょうか」

髪を掴まれ無理矢理起こされる。気道がつまり息が浅くなる。女は立ち上がると私の脇に手を差し入れ抱き上げた。
目線が同じになり女から笑みが消えどこか冷めた目になった。寸前まで何かを成し遂げようと熱に浮かされたように瞳を輝かせていたのに。

「っ……はっ」

女から息が吐かれると同時に生暖かいものが顔に飛んできたそれが血なのだと遅れて認識する。音がして女が振動し振り向くとそのまま崩れた。

「ど、して……」

女の体が私に重なると男が無機質な命令を告げるように計画が狂ったとだけ言った。

「な……によ、それ」

私はもう呼吸ができているのかわからなかった。女の重みと滴る熱いものがまだ私の感覚があるのだとわかる。
これはなんだろう。涙だろうか。血だろうか。生きている証だろうか。混ざりあったものは何なのだろうか。


物心がついた頃だろうか。私は羽入を目指して地を這っていた。意識を失う直前のものではなく、赤子のそれ。羽入はわかってるかのように笑った。戻ったのだ。死ぬ前に、生まれた後に。
羽入も何が起こって戻ったのかはわからないと言った。自分にもそんな力はないと。やがて話せるようになり親に話せば医療機関に連絡されそれだけで年月を費やして殺された。
気づけば死に、また戻っている。しかし全てが同じではない事に気がつくとこれは時間を巻き戻しているのではなく可能性を夢見て世界をさ迷っているだけなのでは?私は既に気が狂っていて幻覚を見ているのでは?とすら思った。幾度も幾度も襲い来る何かから逃げて隠れて殺される。この痛みも苦しみも幻覚なんかではない私は正気だ。そう思わなければ永遠にこの無間地獄から出られなくなってしまう。
出口はあるのだと思わなければ息もできない。

繰り返し誰かに頼れば信じてもらえないか巻き込んでしまい殺される。それならば隠れるしかなかった。

「梨花」

山奥に隠れ住み、陽が昇り6月が終わったのだとわかる。目印の線を引こうにも手が動かない。ただ昇る陽をこの身に受けることしかできない。

「梨花」

何がだめだったのだろう。もうすぐで途切れる意識の中で最後の力を振り絞り思考を巡らせる。私は確かに地獄を越えたはずで呼吸をしている。でもまた戻されてしまう。

雛見沢にはある病があった。伝え聞く鬼の物語は病に狂った人々のものだ。この村の巫女となった者がいなくなった時に全員発症してしまう。そんな物語のようなものあるわけがない。それを証明するために出る勇気は私にはなかった。この雛見沢という檻の中から一人出られない。
檻の中で幾度も幾度も殺される。血溜まりの中で私は座り込んでしまう。俯いてただここにいることしかできない。


雛見沢に来れば高確率で発症してしまう魅音の妹詩音。元は反対だった双子はある時から反対が正しくなった。
魅音となった詩音に殺されるのは何度目だろう。ただ殺されてやるのも癪で暗闇の園崎家でかくれんぼに興じてやる。

「来てはいけなかったのですよ」

期日が近づけば口数が少なくなっていく羽入が現れ諦めたように口にする。見上げ睨み付けると困ったように眉を下げた。沙都子を助けられない事も数々あった。繰り返しても沙都子がどこにいるのはわからない。捕まっても死ぬ前の記憶は薄れてしまいどこかへ連れていかれたことしかわからない。

「っ……」

唾を飲み込むだけでも緊張が走る。息を殺して隠れるのは何度目だろう。私を殺し続ける檻。

「あんた、何でっ!やっぱり化け物がいるんだ!この村は呪われてる!」

屋敷の中を詩音の声が響くと狂笑が鐘のようにずっと鳴る。詩音は見るからに既にL4だ。幻覚を見ているのかもしれない。けれどすぐに響く銃声に誰かがいるのがわかった。

「梨花!」

立ち上がりかけて羽入の声と共によろける。奇妙な感覚がした。もしかしたら助けてもらえるかもなんて期待は消え失せる。ここに助けを求められる人なんていない。
私は一人だ。

「梨花、待って下さい!」
「やった!これで私は自由だ!待ってて悟志くん!元凶をやっつけたら迎えに行くから!」

銃声が止み羽入の叫びと詩音の喜びが混ざる狂った叫びが同時に聞こえてくる。
私の手には包丁が握られていた。無駄な足掻きと理解していても持ち出していた包丁。私もまだ生きたかったのだ。

「私は……ひとり」

呟くと口角が上がっていた。迫り来る恐怖から解放される。迫る檻を退けられなくても私の鼓動は止められる。首にあて思いきりつきたて切り裂いた。
舞う赤が視界を埋め尽くし意識は途切れた。


それからは惰性のように過ごした。何度助けようとしても助けられず、生きようとしても閉ざされる。折れてしまった。羽入の話には相槌を返すだけ。磨耗していく魂を慰めるように押し入れにしまわれていた赤いワインに手を出した。あの時視界を埋め尽くした赤には遠く及ばないけれど暇潰しくらいにはなる。


回数はわからなくなってきた頃、何度も繰り返した言いつけで外に出て座り込んでいれば見たことのない光景が映された。この雛見沢に新たな家ができて引っ越してくる。魅音やレナと同じくらいの歳の男の子の瞳は暗く、一人なのだと何となく感じた。私の瞳はもう濁っていたから。
私とは違うようなその瞳を見つめ続けると視線が合い怯えたように走り去ってしまった。そうして珍しい引っ越しに雛見沢の住人は戸惑いながら魅音が先導し迎え入れ私も協力した。
けれど彼も発症した。

「ごめんなさい」

魅音、レナ、そして彼がいなくなった学校は静かで羽入が三人の席に向かって謝っていた。
私のせいなのだ。私が巻き込んだのだ。どうしろというのか、自分に憤るしかなかった。しかしひとりの私に何ができるのか。泣いたのはいつ以来だっただろう。

彼は新しい風だった。発症する時もあれば次第に助ける側になっていく。レナを、沙都子を助けようとして彼も巻き込まれたのかもしれない。

「おいで、鉈女」

檻に陽が差すようで顔を上げていた。まだこの檻から出られるかもしれない。
私は貴方と、貴方達と、みんなとこの雛見沢の昭和58年6月から脱したい。
そうして私は助けを求め、叫んだ。


意識が戻ると私は黙々と穴の中にスコップで土を掛けていた。身体は言うことを聞かずにひたすらに土を掛けていく。月明かりで視界は明るくても私の影で穴の中に何があるのか、むしろ背からの光が強いことで私の影が濃くなり見えない。私が何を埋めようとしているのかは見ることができない。

「貴方が埋葬しているのは貴方の死体?」

聞き覚えがあるようでないような声が背後からすると身体が止まり動かせるようになる。スコップを土に刺して恐る恐る覗き込む。

「それとも私の死体かしら?」

月明かりの差し加減が移り変わり穴の中が見えるとそこにはあの時私に覆い被さった鷹野三四の骸があった。

「あ……」

あの時に共に生き絶えた女。

「私は貴方を殺したかった。つまり貴方も私を殺したかった」
「違う!違う違う違う違う違う違う」

頭を抱えてその場に崩れ落ちてしまう。膝から崩れ落ちると土が落ち鷹野三四の顔にかかる。

「どうして?いいじゃない。貴方も私も同じよ。私達の足元には屍しかないわ」

この檻に私を閉じ込めたのは誰なのだろう。鷹野ではない。私は私であることをこの檻の中でしか認識できない。それなら、閉じ込めたのは。

「違う!」

考えを打ち消すように叫ぶ。大勢の人が私に巻き込まれて死んだ。けれど私をこの村の中心にしたのは貴方達でしょう?ずっと続いてきたしきたりなんていうものでしょう?

「彼らは貴方を、強いては私を証明する存在なの」
「やめてっ!やめて……」

打ち消した考えが言葉になり形になり実感してしまう。涙が流れて座り込み身体は折れていき膝に顔を押し付けた。耳を両手で塞いで言わないでと首を振る。
背後の声の主は屈み私にぴったりとくっついた。右手を取りスコップの柄を握らせ、自らの手も添えた。

「さあ、土をかけましょう?私と貴方の躯に」

囁かれる声は私と重なった。


どことも知れぬ果てのない空間に浮かぶ少女を前にただ散らばる欠片を見つめていた。このゲーム盤の欠片。私はずっと、ずっとこの空間でこの光景を眺め続けた。

「……羽入?」
「あのあうあう言うだけの役立たずならいないわよ」

名が零れて返してあげるとゆっくりと浮く身体のバランスをとりながら起こした。
同一のようで同一ではない私の姿に目を見張り何も発せない。

「ここは……」

知った場所だろう。数多のカケラの世界。

「"古手梨花"は檻から脱したのよ。夢はどうだった?貴方が置いてきた私を構成する全てを見た気分はどう?」

悪夢だっただろう。諦め、屈し、立ち上がることができない。古手梨花になれなかったものが見せた夢。それは私も同時に見たものでらしくなく感慨深い。

「貴方の望みは何だったのかしら?このゲーム盤の勝利条件にはない部分は何だったのかしら?……羽入は誰のためにあの役割だったのかしら」
「かしらかしらうるさいわよ」

目覚めたてで真っ青になりながらも返してくる古手梨花に嘲笑する。強がりなのがわかるから。私であって私ではないもの。諦めと数多の世界の梨花の残骸。

「結局人間の欲望なんて共通している。それは原初からの罪であり罰。もう魔女である私達には関係がないけれど」

あの子の笑い声が微かに聞こえるけれど古手梨花はわからずに不気味そうに見回すだけ。

「反するようで互いがいることで証明し合った。運命ね」
「意味がわからない」
「互いの生きたいは互いの死に様に影響して共鳴したとでもいうのかしら」

思い当たる節があるのか黙り込む。

「もういいわ。贖えない罪に喘ぐといい。自らの屍すら駒だったのだから」
「まっ……」

自身の体が消えていくのがわかったのか手を伸ばしてくる。私は背を向け視線を投げた。声は音にならずみっともなく口を動かし足元から消えていく。

「貴方は檻から脱したのよ。一人だと嘆いた二人のゲーム盤は終わった。退屈ね」

あの子の声が遊びに誘う。次のゲーム盤はどこだろう。プレイヤーにすらしてやらない。己の欲望に溺れてしまうがいい。それが己の存在なのだ。
私は永遠に満たされない。満たしてやらない。貴方も本当は満たされることはないのよ。人間はそういうものなのだから。けれど満たされて良かったわね。矛盾した存在に賛辞を贈る。

「私がいるからいいじゃない!ベルン」

頭上から投げ掛けられる声を見上げてはやらない。交わることはないけれど私達は共鳴した存在。

「そうね、ラムダ」

目を閉じて返した。瞼の裏には檻の光景が映る。鏡のように映し続けるけれど私はそこにはいない。まなざしを注ぐのだろう。私であり、私ではない者に。


R1.9.19


対象a
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