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わからない。

鉛筆を握りしめて唸りそうになるのを堪えながら机に置かれた紙を睨みつけていた。
隣の席の沙都子に聞くか迷う。今まで教えたりはしたけど教えてもらおうとした事はない。
それは幾度とない繰り返しで何度も解いた問題だったから。答えをすでに知っていて飽き飽きしていた。
でもいざ答えの知らない問題が出てくるとどうだろう。こんなに勉強に頭を悩ませたのはいつ以来?

「梨花ちゃん」
「っ!?」

すぐ隣から聞こえるはずのない声が聞こえ思わず勢いよく横を向いていた。

「梨花ちゃん?」
「さ、沙都子が圭一になってるのですよ」

沙都子の席に座っている圭一は不思議そうに顔を覗きこんでくる。
その視線に堪えられずに前に向き直り机を凝視した。
そんな私の様子に気がついていないのか圭一はいつも通りに笑う。

「びっくりさせてごめん。梨花ちゃん困ってそうだったからさ」
「別にびっくりしてもいないし困ってもいないのですよ」

ついそんな事を言ってしまう。
でも目の前の問題用紙は真っ白。何とか埋めようと考えようとしても頭に問題が入っていかない。

「じゃあ一緒に解かせてくれよ。意外と覚えてなくてさ、まいったよ」

そんな見え透いた嘘までついてくる。でも優しい嘘だとわかっている。
私が言い出しにくい事とわかっていて言ってくる。

「……圭一がそこまで言うなら仕方ないのです」
「あぁ、ありがとな」

私が言いたい言葉を圭一がすんなり言う。変な意地を張るのはいけないと思うのに言えない。
圭一は椅子を私の方に寄せて座り直す。その姿をちらりと見てまた問題用紙に視線を戻した。


「よし、授業終わる前に終わったな」
「はいなのです」

圭一は両手を上げて大きく伸びをした。
目の前にある用紙は先程が幻かのように数字がたくさん記されていた。
暗号のような式が今では簡単に思える。それもこれも圭一が教えてくれたおかげだった。
圭一は歳も上で頭もそこそこいいらしい。普段は気に留めないけど教え方もうまくてそこそこ頭がいいというのは嘘ではなかったんだなと思う。

「実は、さ」

伸びをしていた圭一がいつのまにか顔を近づけていて驚く。かろうじて声は出さなかった。
内緒話をするように声を潜めてくるため必然に耳を傾ける姿勢になる。

「沙都子には内緒にしてくれって言われたんだけど、沙都子が席変わってくれたんだ」
「どういうこと?」
「梨花ちゃんが不自然に固まってるなと見てたら沙都子が手招きしてこうなった」

圭一が私を見ていた事や不自然な様子を気付かれていた事以上に沙都子に気付かれていた事に驚いた。
ずっと勉強はできるように見えていたはずなのに私が問題がわからないと気付いたというの?
沙都子が教えると言ってくれても私は断るだろう。それも見透かされていた。

「大丈夫だ」
「何がですか?」
「梨花ちゃんは頼ってもいいって事だよ」

圭一の少し大きい手が頭を撫でる。その暖かい感触に照れて小さく鳴いた。
迷路を脱出した世界はまだ慣れなくて戸惑ってしまう。
でもそんな私を見ていてくれる仲間がいて、些細な事に気付いてくれる。
そんな仲間に私は何ができるだろう。

「……のです」
「え?」
「……ありがとうって言ったの」

顔が熱い。
上目づかいで照れ隠しで睨みつけるようになってしまったけど圭一は笑ってくれた。
少しだけ素直になってみよう。何ができるとかではなくそれは自然な事なのだから。

「梨花ちゃん?」

圭一の手が離れ、席を立ち上がると圭一の席に座る沙都子に一直線に向かっていった。
近づく私に気付いた沙都子が私を見て首を傾げる。
もしかしたら怒っているように見えるかもしれない。
沙都子の目の前まで来ると机にある圭一の問題用紙が目に入る。数字が埋め尽くされていて圭一の優しさに暖かくなる。
その暖かさが後押ししたように私は沙都子を真っ直ぐ見つめた。

「沙都子、ありがとうなのです。迷惑でなかったらわからない問題教えてほしいのですよ」

沙都子は笑ってくれた。
迷路を脱出しても臆病で素直になれない私がいる。でもそれは変われる。
私はもう迷路の中にいないのだから変わっていかなければならない。



H22.10.24

私はもう迷路の中にいないのだから
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