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「髪を切れ」
「へ?」

報告書を受け取り、告げた命令にヴァーミリオン少尉は間抜けな返答をしてきた。
それ以上特に言う事もなく机に肘をつき報告書に目を通し始める。

「そ、それは命令、ですか?」
「聞くまでもないだろう。わかったなら今すぐその邪魔な髪を切ってこい」

視線は報告書に向けたままだがうろたえているのがよくわかった。今にも泣きそうにもなっているだろう。
だがそんな事で撤回する理由にはならない。
あいつの髪は長かった。そして今目の前にいる同じ顔のこいつも髪が長い。
できるなら顔すら隠せ、声も出すなと言いたい。
秘書官である以上無理な話だというのはわかっている。ならば排除できる共通点をなくせばいい。
髪を切ったところでさほど変わりはしないだろうが。

「……理由を聞いてもよろしいでしょうか」
「理由などない」

理由など語る必要はない、と告げればしつこく食い下がるだろう。
ただ髪を切ればいい。それだけの事だ。

「なっ……」

目の前の髪が視界から消え、顔を上げると顔を赤くさせ何かを堪えるように唇を噛み締めている少尉と視線が合った。
予想していた反応だった。だがこれでは何かを言うために報告書を奪ったようだ。それは予想外だった。

「っ……少佐にとっては邪魔なものかもしれません」
「理由などないと言ってるだろう」

報告書を持つ手に力が入るのが見てわかる。
だがその力は言葉にならないのか、目尻に涙が溜まりはじめ口を開けかけては閉じる。
報告書を奪い返し、もう一度髪を切れと命令すれば折れるだろう。
そうするつもりで手を伸ばした。

「嫌です」

報告書に伸ばした手を阻むように掴まれる。
はっきりと口にはしても掴む手は震えていた。
命令通りにしていればこの恐怖からも逃げられるものを何故逃げない。

「理由もなく大事なものを捨てろと言われ、捨てる事などできません」

言葉とは裏腹に今にもこの部屋から逃げ出しそうな泣きそうな表情をしながら、逃げない。
睨みつけるような視線を向けても怯えはしても掴む手も離さない。

「勝手にしろ」

呆れたように言い、目を伏せた。
すぐに手が離され、その手を引く。

「……ありがとうございます」

小さく呟かれた言葉に驚いて目を開けてしまう。顔は俯かせていたためすぐに少尉の顔は見えなかった。
礼など言う事ではないだろう。
わからない。目の前にいる女が。
だがそれはあいつとは重ならなかった。

「それでは、失礼します」
「報告書がぐしゃぐしゃだな」
「すみません……」

どれだけ力を入れたのかいつのまにか報告書は皺だらけになっていた。
机に置いた報告書を伸ばしはじめるが元に戻るはずもない。
それでも少尉は必死に伸ばす。
垂れた髪が目の前にあり、毛先を掴んでいた。

「いたっ……、少佐?ま、まさか私が切らないからこのまま髪を抜くおつもりですか!?」
「馬鹿か。そんな時間がかかる事をするわけがないだろう」

言いながら軽く引っ張ると少尉が痛みを訴える。

「逆らったのだから、どうせなら一生切るな」
「一生、ですか?」

困惑気味に聞き返されるが返答はしなかった。


翌日。
ヴァーミリオン少尉の髪は揺れる事がなくなった。
少尉いわく

「任務や勤務中は邪魔ですよね」

らしい。
すぐに切ったわけではなく髪を帽子の中にいれこんだだけだとわかった。
全くよくわからない。
わかりたいとも思わないが。

何も変わってなどいない。変わっていないが、何かが隠れて見えたのかもしれない。
今はそこに何もないとはわかっていても。



H22.5.14

今はそこに何もないとはわかっていても
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