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段々と記憶は戻ってきているのにどうしても記憶をなくした前後の出来事を思い出す事ができなかった。
シンの事が好きなのにその気持ちに薄い膜がかかっているようでシンに好きと言えない。想いが曖昧で伝えられない。
そんな私をシンは見抜いていて私にもう一度シンを好きにさせる、奪いに行くからと告げられ別れる事になった。
悲しみはない。もう一度はじめればいい。シンは私を迎えに来てくれる。


「あれ?」

一瞬脳裏に何かがよぎった。誰かを見上げている。でも誰なのかわからない。
シン?それとも違う誰か?

「どうした?」

我にかえるとトーマが心配そうに私を覗きこんでいた。
私は何でもないと示すように首を横に振る。

「事故とはいえ俺のせいだから、何かあったら言って」
「大丈夫だよ」

それでもトーマの顔は晴れる事はないまま、キッチンに戻っていった。
病院の検査では異常はなかった。体調も悪くない。でもトーマはあの事件の事を気にして様子を見にきてくれる。
確かに犯人はトーマだったかもしれない。でも事故だった。
だから日常はすぐに戻ってきた。もう幼なじみ三人で会う事はしていないけど。

「はい、紅茶」
「ありがとう」

私の前にティーカップとクッキーが置かれる。トーマが買ってきてくれたもの。
そっとカップに触れると指先が温まる。寒くはないけどその温かさに安堵した。

「あのさ」
「なに?」
「シン、今日来ないのか?今更だけどこんなに来てて会わないからさ。もし気をつかわせてるなら言って」

シンと別れて数日。別れてからトーマに会うのははじめてだった。
だからトーマに言っていない事に今更気がつく。

「シンと別れたの」
「は?」

トーマが聞き返してきても何て説明したらいいのか迷ってしまう。

「俺のせいだったりする?というかこのタイミングでそれ以外ないよな」
「違うよ?それはたまたまで……」

私が記憶喪失になったのが一番の原因。でもそれをトーマに言っていいのだろうか。どうして私はトーマに言うのを迷っているのだろう。
何か言おうにもまとまらず俯いてカップの中身を見つめる。

「シンとお前が付き合いだしたって教えられた時は驚いた」
「私も驚いたよ」

言葉も見つからず、沈黙も辛く感じはじめていたからトーマが話し出してくれて安心する。

「お前はずっとこのままがいいんだと思ってた」
「このまま?」

視線をトーマに向けるとトーマが私を見つめていた。話しているのだから見つめられていてもおかしくないのに、その瞳を見ていられずに逸らす。

「トーマ、買い物行かない?私食べ物の買い出しに行こうと思ってたの」
「何でシンを受け入れたんだ?お前もずっとシンが好きだった?」

トーマは私の話が聞こえていないかのように話を続ける。
さっきまでの安心感は消え去っていた。早くこの部屋から出なきゃいけないと思えてきてしまう。相手はトーマなのに、トーマと二人でこの密室にいてはいけない。

「トーマ、行こう?」

恐る恐るトーマを見るとトーマは悲しそうな表情をしながら頷いてくれた。
そんなトーマの表情を見るのはあまりなくて苦しくなる。そんな顔をさせたいわけじゃないのにどうしたらよかったんだろう。


数日後、私の視界は塞がれていた。

「トーマ!」

ただいまと告げられても返せない。ただこの塞がれた視界と縛られた両手両足をほどいてほしいとトーマを呼ぶ。
トーマのベッドに寝かせられていて、トーマが座ったのかベッドが軋んだ。

「解いてほしいよな?でも駄目なんだ。お前にこんな俺見せたくないから」

トーマの指先がこめかみに触れて首筋をなぞって二の腕までいく。ぞくぞくとする感触。だけど不快感はない。

「トーマ、どうしてこんな事するの?」
「……どうしようもなかったからかな」

トーマが私の身体を起こした。視界は暗いままで目の前にトーマがいるはずなのに見る事ができない。
二の腕を掴む両手が離れたかと思ったら抱き寄せられた。
数日包まれている香りが更に私を包みこむ。
安心できるはずなのにどこかで拒否しなければいけない気持ちがあった。

「二人が別れなければもう二人を見守る事ができたはずだった。そうしなきゃいけなかったんだ。なのに」

強く抱き締められる。押し付けらる身体に息が苦しくなる。

「どうして別れたんだ?」

この数日で何度か問いかけられた。でも答えられなかった。
言ってしまえば戻れない。シンに好きと言えなくなってしまう。
わかっているのにこの作られた密室で揺れてしまっていた。
シンの奪いに行くという言葉が遠くに感じる。この密室までは届かない。

「トーマ……」

くぐもった声が漏れる。
暗い暗い視界の中、トーマしかいない。ずっと守ってくれたトーマしかいない。
ずっと幼なじみ三人でいられると思ってた。あの空間が幸せだった。
変わらない関係、安心できる空間。

もうどこにもないのに。

シンの声が聞けたらこんな考えどこかへ行ってしまうのに、シンはいない。
私は段々傾いていく。仮初めの空間に身を委ねたい。

「泣いてるのか?」

身体が離されて問いかけられてから自分が泣いていると気づいた。
塞ぐ布を湿らせて流れていく涙。
心の中でシンに謝る。信じられなかった、待っていられなかった。
そしてトーマに告げる。

「トーマ、守って……」

密室を完成させるために。幻だとしてももう揺れる事もない、安心できる空間。
トーマに抱きしめられながら私は安堵感に包まれて暗闇を受け止めるように目を閉じた。


H23.11.22


【君を閉じ込める場所5題:密室】
配布元:リコリスの花束を

密室-Heroine side-
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