three



 長く雨の降り続けた2週間も、今日でようやく終わりを迎えたらしい。
 まだどこか湿り気を帯びている夕暮れの空気を肺一杯に吸い込みながら、ディルックは雨水にぬれそぼったモンドの街角を歩いていた。頭上に広がる空には2週間ぶりとなる青空が広がっていて、街を駆ける子どもたちや道端に言葉を交わす主婦たちの嬉しげな声が四方八方から聞こえてくる。
 今日もモンドは変わらず平和なようだ。そのことに小さく笑みをこぼし、エンジェルズシェアへと向かう歩みを少しばかり軽くした。
 ディルックがバーテンダーとして酒場に立つのはあの日以来、つまりは約1か月ぶりのこととなる。今日は雨が上がったことに託けて酒を飲みに来る人が多くなりそうだ。そんな予想を立てながら、道の真ん中に横たわった水溜まりを跨いだ。

 その途中、ディルックはふと、前方からこちらへと歩いてくる小さな人影に気付く。

 印象的な三角の耳と尻尾とをゆらゆらと揺らしながら歩くその少女は、モンドにて最近エンジェルズシェアに並ぶ人気を得始めた酒場、キャッツテールの超人気バーテンダーであるディオナだった。
 どうやらディルックと同様、彼女もこちらの存在に気付いたらしい。ぴたりと立ち止った彼女からうげ、と盛大に顰められた顔を向けられてしまうけれど、彼女から嫌われているという自覚のあるディルックが特別それを気に留めることはない。
 今日も今日とてそうして威嚇された後、適当に無視されてしまうのだろうと経験則をなぞりながら、ディルックは躊躇することなくそのまま歩みを進めていく。こちらから何か『失礼』さえしなければ、彼女に噛みつかれてしまうなんてことは基本的に起こり得ないのだ。
 しかし、ディルックの予想に反して、ディオナがいつものようにディルックを避けていくことはなかった。むしろ、彼女はディルックを待ち構えるように進行方向上の道のど真ん中で仁王立ちの体勢をとったのだ。
 そうなるとディルックはディオナを避けて通ることが出来なくなってしまうし、ディオナにとっても同じことが言える。わざわざ自分と相対しようとは珍しいこともあるものだ、何か用でもあるのだろうか。そんな疑問に首を傾げながら彼女の傍まで歩み寄ったディルックは、そこでようやく足を止めた。
 自分よりも随分と背丈の小さな彼女に視線を合わせてやることも敢えてせず、ディルックは高い背丈の上から静かに彼女を見下ろした。
 身長差からもディルックの元々の雰囲気からもかなりの威圧感がそこにはあるだろうに、ディオナが臆することは一切ない。あの男と同じく猫科の動物を連想させる丸いつり目が、睨みつけるようにディルックを鋭く見上げている。
 そうして道中に見つめ合う──傍から見ればほとんど睨み合うも同義のそれだったが──こと数十秒。2人の間に落ちたのは妙に緊迫した空気と沈黙ばかり。そんなただならぬ二人の様子に、運悪くその場を通りすがってしまった人々が、彼らを避けるために道の端ギリギリまで身を寄せてしまうのも無理はないことだろう。誰だって危ういものに近寄りたくはないのだ。

「……あなた、あの人のことは何か知ってるの?」

 先に沈黙を破ったのはディオナだった。ディルックへの嫌悪による刺々しさを孕みながらも、その声は何処か心配や不安といった色に揺れている。その原因は、彼女の言う『あの人』と何か関係があるのだろうか。
 しかしディルックには分からない。その『あの人』が、一体誰であるのかさえも。

「あの人……?」
「ガイアのことよ」
「……彼が一体どうしたんだ」

 その名前を聞いた瞬間、予想外のような、それでいて予想通りだったような、そんな酷く不思議な心地がした。
 ざわりと震えた心臓に思わず声を低くしてしまいながら、ディルックは再びディオナに問いかける。夕暮れはいつの間にか夜に傾き始め、空を埋めていた橙が群青へのグラデーションを描いていた。

「……その様子じゃ、何も知らないのね」

 少しの落胆を乗せた声。きっと彼女は、ディルックならばガイアに関する『何か』を知っているのではないかと期待していたのだろう。そんなものディルックにとってはただの理不尽でしかないのだが、今はそれを気に留める余裕も彼には無かった。
 ディオナが気にかけ心配するような何かが、あの男にあった。ディルックには皆目見当もつかないその内容に、頭の中ではただ数多の疑問符が踊るばかり。

「一体何があったんだ」

 それ以上何を話すこともなくこの場を去ってしまいそうな様子を見せるディオナに、ディルックは慌てて彼女を引き留める言葉を吐いた。そうまでしてあの男を知る意味も理由も、ディルックにはないというのに。どうしてか思考よりも早く言葉が紡ぎだされてしまったのだ。

「……」

 言葉を躊躇するような沈黙が落とされる。
 その沈黙にふと思い出されたのは、2週間前のあの洞窟でのひと時のこと。
 あの時ディルックがガイアを気に掛けたのは、ガイアが他でもなくディルックの前で寒さに震えていたから。言い換えれば、彼がディルックに『手助けをする隙』を見せたからだった。
 だから、そう。彼がディルックの前で助けを求める素振りや手助けをする隙を見せない限り、ディルックが彼を気に掛けることはない。なかったはず、なのだ。


「──彼、最近全く酒場に顔を出さないの」


 ディオナの勤めるキャッツテールだけではなく、エンジェルズシェアも含めたモンド中の酒場に、彼はもう2週間近く足を運んでいないのだという。
 ガイア・アルベリヒが無類の酒好きであることを知らない人は、きっとこのモンドにはいないだろう。それが決して過言ではないほどに、彼と酒とは切っても切り離せないものだった。それはつまり、彼と酒場もそれと同じ関係であるということ。
 ディルックは誰よりもそれを正しく理解していた。それゆえに、だからこそ、ディオナのその言葉に大きな大きな衝撃を受けたのだ。

「ガイアが?」
「そうよ。本人に聞いても『家で飲む酒の良さに気付いただけだ』ってはぐらかされるけど、あたしはそんな言葉に騙されるほどバカじゃないわ」

 伝聞の形でしか知らないガイアのその言葉に、けれどディルックもまたディオナと同じ感想を抱いた。あの男が、そんな理由だけで酒場に2週間近くも顔を出さなくなるわけがないのだから。
 憤り混じりの声をそこではたりと途切れさせたディオナは、感情を宥めるようにひとつふたつと呼吸を落とす。ゆらゆらと揺れた視線はまだ雨の足跡が色濃い地面へと向けられ、再びの躊躇をそこに滲ませていた。
 太陽が西の空に沈み切ってしまったのだろう。急速にその暗さを増していくモンドの街角に、ぱちりぱちりと街灯がともされていく。


「──……あなたには、教えておくべきなのかもしれないわね」


 おもむろにディルックを見据えた彼女の瞳が、家屋の窓から降り注ぐ橙の光を反射してきらきらと眩しく輝いていた。夜闇にぽつりと浮かび上がった猫の双眸。暗視能力の備わったその瞳が闇を厭うことはないのだと、いつか聞いたことがある。

 2週間前、一番の大雨が降った翌日に彼がキャッツテールを訪れた。

 ぽつりぽつりと彼女の声によって語られていくその言葉に、事実に、どうしようもなく胸が騒いだ。突然覚えた白昼夢を見ているかのような錯覚は、もしかすると現実から逃避したいと願う無意識的な欲求の現れだったのかもしれない。
 君はあの子のことをそんなにも案じてくれているんだな。その言葉が喉元につっかえたせいでままならなくなってしまった呼吸に、肺が息苦しさを訴えていた。


「理由は全く分からにゃいけど……、彼、多分味覚が壊れているんだと思うわ」


 だってあの日の彼、私の新作を飲んだのに、いつものように「この酒に何が使われているかを当ててみせようか」って笑ってくれなかったんだもの。


  ***


 床に落ちたグラスが砕け散る音に、突如意識が現実へと引き戻された。
 つい一瞬前までそのグラスを磨いていたのだろう手を曖昧に空中へと残したまま、ディルックは数度の瞬きを落とす。視線をゆっくりと周囲へ巡らせてみれば、そこはもう見慣れたエンジェルズシェアの店内で。ディルックただひとりだけがカウンターに残されたその空間には、もう既に、酒の回った客たちによる賑わいの影すらも残されていなかった。
 心ここに在らずという状態のまま、いつの間にか今日の営業を終えてしまっていたらしい。そんなことをようやく理解しながら、ディルックは床に砕けたグラスの姿を静かに見下ろした。
 自らの記憶が正しければ業務に大した支障は来していなかったようだけれど、まさか自分がこんなにも茫然自失としてしまうなんて。らしくないなと頭を振り、床に散った破片を拾い集めようと酷く緩慢な動作でその場にしゃがみ込む。
 しかし、一度は現実へと戻ってきたはずの意識も、気づけばまた思案の海へと沈んでしまっていて。ぐるぐると頭の中を巡り続けるディオナの言葉に、細い細い針のような何かが次々とディルックの胸を突き刺していく。痛みというにはほど遠く、けれど無視するには不快さが強すぎる、そんなどうしようもない感覚がずっと喉の真下に蟠っていた。

 味覚が壊れている。

 あまりにも完結かつ端的で、その先の推測を導くには少しばかりもの足りない簡素な情報。確証のないただの直感だと彼女は最後に言っていたけれど、馬鹿げていると一蹴することなど決して出来ない『重み』が、そこには確かにあった。
 味覚異常を引き起こすものといえば、病気や薬の副作用、何かの障害や疾患、もしくは心因性の原因などがまず挙げられるだろう。しかし、そのどれもが彼という存在になかなか結びつかず、思考は空回り続けるばかり。
 敵からの攻撃が原因となって味覚に麻痺が生じてしまった。そう考えるのが一番自然なようにも思えた。そんな厄介な攻撃を受けてしまうなんて、騎兵隊長様も随分と詰めが甘いようで。皮肉交じりにそう言ってやることが出来ればいいのに、と、そんなことを考えてしまう自分の存在にもディルックは薄々気づき始めていた。
 その感情に付ける名前は、決して『心配』というそれではない。何故なら、ディルックとガイアの間にそんな言葉を置くのはあまりにも不格好で不自然すぎるから。少なくともディルックの認識の中では。そして、恐らくガイアの認識の中でも。

 だからこそ、ディルックは胸に蟠るそれを『苛立ち』と呼んだ。

 ああ、そうだ。ディルックは苛立っていた。ガイアという男に対して。あの日からずっと、ディルックの思考と感情をかき乱してばかりいるあの存在に対して。
 ガイア・アルベリヒという男は、隠しごとが多く、そしてそれを隠すことが非常に得意な男だ。そのことを、ディルックは誰よりも正しく理解していた。

 きっと、あの男はまた何かを隠そうとしているのだろう。

 確証もなく、ただ静かにそう確信した。まだその『何か』が一体何であるのかの検討はついていなくとも。
 心臓にまたひとつ、じくりとした苛立ちが募っていく。あの男から隠しごとをされるのは今に始まったことではないというのに、一体どうして今回はこんなにも心が落ち着かないのだろうか。分からないことばかりで埋め尽くされてしまった世界に、自分自身に、ディルックは唇を噛んだ。
 拾い集めたガラスの破片を手に立ち上がる。その動きに合わせて揺れた髪紐が、両端に飾られた丸い石でからからと笑い声をあげていた。
 視線をカウンター席へと向ける。そこには数時間前、いつものように旅人とパイモンの姿が並んでいた。


 けれどもその隣には、やはりガイアの姿は無かった。



  ***


 犬猿の仲と称してもきっと過言ではないのだろう、と、ディルックはガイアと自分の関係性をそう評価していた。だからこそ、自分たちは存外高頻度に顔を合わせていたのだということを理解した瞬間、かなりの驚愕と衝撃に襲われてしまったのだ。
 2週間と5日、言い換えれば約半月も相手の姿を見ないというのは、ディルックがモンドに戻って以来、初めてのことなのではないだろうか。そんなことをふと考えたのは、あの雨の日を最後にぱたりと見かけなくなっていたガイアの姿をようやく目にした時のこと。

 それは、地面に濃ゆく影が落ちるほどに月の明るい夜だった。

 モンドの街も眠る深い夜の中、いつもの如く街を駆け、誰かに自らの姿を見られないようにと家屋の屋根を渡り歩いていたディルックは、ふと見上げた空にその姿を見た。いいや、正確に言えば空ではなく、モンド城を囲む城壁の上に彼らの姿はあった。
 月明かりの下に並んだ藍と象牙。それがガイアと旅人の持つ色彩であると即座に理解出来たのは、月光があまりにも鮮明にその輪郭を描き出していたから。
 騎士団の一員としての夜の見回り任務と、その付き添いだろうか。城壁の上に並び立ちこちらに背を向けた2人は、どうやら何かを語り合っているらしい。距離があるせいでその内容はひとかけらも分かりはしないけれど、そんな様子を読み取ることは容易く出来た。
 旅人が言葉を紡ぐ。ガイアが答える。きっと、そこには陽だまりのように穏やかな時間が流れているのだろう。
 早くこの場を離れなければ。脳内で誰かがそう叫んでいたけれど、どうしてか足が動いてくれなかった。まるで石像にでもなってしまったかのように。そして視線は2人の後ろ姿に縫い留められたまま、ただ、ただ静かにその光景を眺め続けるばかり。
 ガイアの頭が揺れて、横顔が微かに垣間見える。旅人の少女に向けられたその表情は、この距離からも確かに理解できるほど酷く優しいもので。あまりにも穏やかなもので。どうしてか堪らなく胸が騒いだ。
 それまでぴくりとも動いてくれなかったはずの足が、その瞬間弾かれるように踵を返して足早に歩き始めた。月明かりに背を向け闇へと逃げ込んでいく最中、ディルックの脳内を埋めるのはまたしても疑問符ばかり。

 どうして、何故、自分はあの光景から目を逸らしたのだろう。

 分からない。分からない。
 足裏から地面という支えが消えて、そのまま奈落の底へと落ちていく錯覚。ぐるぐると回る思考に、感情に、いっそ吐き気すら覚えてしまいそうだ。
 違和感、髪紐、騎士団、璃月、雨音、味覚、月明かり。
 点在する数多の情報が、ひとつの線で繋がりそうで繋がらない。その歯がゆさが、胸を焼く苛立ちの温度をさらに酷くしていく。その全てをディルックに与えたのは、他でもないガイアというたったひとり。そんな事実もまた、喉をかきむしりたくなるほどの激情をディルックに与えていくのだ。

 あの男は、ガイアは、

 殺された足音が夜の中に震える。ディルックの姿を見つめるものはたったひとつ、空に浮かぶ美しい月の存在だけ。だから、そう。心の隙間にふとこぼれ落ちたその感情を見咎めるものも、それ以外にありはしなかった。

 ──あの少女になら、その仮面の下にある全てを打ち明けてしまえるのだろうか。



 月の美しさをこんなにも煩わしいと感じたのは、生まれて初めてのことだった。




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