理解させられる日も遠くはない
──からん、からん。
世界を覆う夜も随分とその深さを増した頃。程よく酒の回った客たちの生み出す賑わいで満ち満ちた店内に、来客を伝える鐘の音がこぼれ落ちた。
身を潜めるがごとく控えめなその響きを、けれどもカウンターに立つバーテンダーが聞き逃すことはない。
グラスを磨いていた手を止めて、今宵のエンジェルズシェアのバーテンダーを勤めるディルックはその視線を出入口へと向ける。普段とは違って後頭部の高い位置に結い上げられた髪が彼の動きに合わせて揺れ動き、天井に煌めくシャンデリアが落とした橙の光を反射してきらきらと輝いた。
「……お、今日はディルックの旦那がバーテンダーの日だったか。こいつは運がいい」
夜を背景に扉をくぐって店内へと足を踏み入れた男は、カウンターに立つディルックの姿を認めるやいなや酷く愉快そうな声でそんなことをのたまった。
その姿と言葉と声に、ディルックはほとんど反射的に顔を顰める。あまりにも微かで常人ならば気づかないだろうその変化にも、目の前の眼帯の男はほとんど確実に気づいているのだろう。
「……ようこそ、ガイアさん」
「ははは。そんなに嫌そうな顔をされるとさすがの俺も傷つくなぁ」
どの口が。バーテンダーとしての定型文を事務的に述べたディルックへ、先のディルックの予想を裏付けるがごとく、男、ガイアは飄々と笑ってみせた。そこに添えるように竦められた肩も、もちろん演技がかった申し訳程度のものにすぎない。
相変わらず癇に障る男だ、と苛立ちが募りはするものの、この苛立ちを表に出したところで意味などないということはディルックも経験則から理解している。
内心にため息をこぼしたディルックは、くるりと彼に背を向けて酒類の並ぶ棚へと向かった。
「『午後の死』か?」
ガイアがその酒を好むことは、彼が酒を飲む場面に居合わせたことのある者なら誰しもが知っている。もちろん、このディルックもその例に漏れはしない。
「流石は旦那様、よく分かってるじゃないか」
背中から飛ばされる軽やかな声には応えぬまま、ディルックは慣れた手つきで酒を作り上げていく。スパークリング白ワインに蒲公英酒を3割ほど混ぜるだけという比較的簡単なその調合には、やはり大した時間もかかりはしない。
数分とせず出来上がった酒をグラスに注ぎ、カウンター前に待っている客へとサーブする。
この男は酒を飲みながら酒場に屯する客たちと言葉を交わすことを好んでいるために、きっと酒を受け取ればすぐに店の奥へと向かうはずだ。そんな予想を胸中に落としたディルックをよそに、グラスを手にしたガイアはそのまま誰もいないカウンター席に腰を下ろした。まるで。それが当たり前だとでも言わんばかりに自然な動作で。
自分の眼前に固定された眼帯の男の姿に、ディルックは今度こそありありとその眉に皺を寄せた。
「……ここに座っても話し相手はいないぞ」
「ん? 旦那がいるじゃあないか」
「残念だが、僕には君と交わす話題なんてない。早く奥へ行った方が君にとっても得だろう」
「はは。なんだ、つれないなぁ」
まさかまた何か厄介事でも持ち込んできたのだろうかと視線を鋭くするものの、ガイアが何か話題を切り出してくる様子はない。むしろそのままゆったりと酒を煽り始めるのだから、ディルックの脳内には怪訝な思いが降り積もっていくばかり。
全てが一切分かりはしないが、どうやらこの男はこのままカウンター席に居座る腹積もりのようだ。それを理解したディルックは、これ以上何を言ったところで暖簾に腕押しだろうと口を噤む。
そんなディルックの内心さえも聡い彼は容易く見抜いているのだろう。にこにこと愉快そうなその表情に、今度こそ小さなため息がこぼれ落ちた。
「『午後の死』、もう1杯頼むぜ」
空になったグラスが、ガイアの手の中にゆらゆらと波を描く。磨き上げられた硝子とその内側を濡らした酒の名残にシャンデリアのこぼす橙の光が乱反射して、ちかちかと目をくらませた。
もう飲み終わったのか、と呆れを滲ませながら、ディルックはそのグラスを回収しようと彼の方へ手を伸ばす。──その瞬間、だった。
ふわり、とディルックの鼻孔をくすぐった香り。
まるで頭を横から強く殴りつけられたかのような感覚に、ディルックの指先が空中で中途半端に動きを止める。
店内に満ち満ちた酒のそれではない。
水や土、草いきれといった完全な自然に由来するそれでもない。
清涼感の中にかすかな甘さを孕んだそれは、まるで可憐な花々を集めて溶かし込んだかのような華やかさを酒場に咲かせている。
ありとあらゆる人の集まる酒場において、その類の香りは決して珍しいものではない。
それならば、一体何が問題だというのか。一体、何がディルックの思考をそんなにも惹き付けて離さないのか。
「……何だ、その香りは」
それは、その香りを身に纏っているのが、他でもないディルックの目の前にいるたったひとりだったから。
絞り出すように紡がれたディルックの言葉に、その片割れを黒い眼帯で覆い隠された左眼がぱちりと瞬く。それを縁取った睫毛が軽やかに揺れて、きらきらと光を弾いた。
その煌めきがあまりにも網膜を焼くものだから、ディルックは反射的に目を細めてしまう。まるでそこに星屑の欠片がこぼれ落ちてきたかのようだ。そんな馬鹿げた錯覚も、胸に燻る感情に食い尽くされて消えていった。
「ああ、これか。少し前に人からもらった香膏でな、一度も使わずに捨てるのもどうかと思ってつけてみたんだ」
いい香りだろう? カウンターに頬杖をついてたおやかに微笑む彼の姿に、痛みとも不快感ともつかないじくりとした感覚がディルックの心臓を襲った。
香膏。その存在を、もちろんディルックも知っている。それは、主に璃月で作られている固形香水の名だ。モンドの年若い少女たちがそれを手に入れたいと口にする姿を、ディルックも通りすがりに耳にしたことがある。
そして同時に、『それを他者へ贈ること』の意味もまた、ディルックは正しく理解していた。
突如口を閉ざし、言葉どころか行動さえ止めたディルックを怪訝に思ったのだろう。「旦那?」と小さく口ずさんだガイアが、ディルックの様子を伺うように小さく首を傾げた。
その動きに合わせて、彼の青を孕んだ黒髪がさらりと揺れる。橙の光に輪郭を描かれたその髪先は、ディルックのそれとはまた違う色彩で世界を彩った。ぱちり、ぱちりと視界に爆ぜる光の雫を静かに見つめたディルックは、数秒を置いてまたしても突然その動きを再開した。
ガイアの手元からグラスをひったくった彼は、言葉もなく注文された酒を調合し始める。どこかぴりぴりとした雰囲気を纏ったその背中に、一体何が彼の機嫌を損ねたのだろうか、とガイアは傾げた首の角度をさらに大きくした。
ガイアの思考回路がその理由に思い至る間もなく、2杯目の『午後の死』を手にしたディルックがガイアへと視線を向ける。
──刹那、ぞわりと背筋を駆け抜けて行ったなんとも不吉な感覚に、ガイアは思わずその肩を小さく震わせた。
あまりにも鋭かったのだ。自分へと注がれるディルックの視線が、研ぎ澄まされた剣で串刺しにされる錯覚を鮮明に覚えてしまうほどに。
本能がかき鳴らす命の危機への警鐘に、脳内を困惑で埋め尽くされたガイアは咄嗟の反応を起こすこともできはしない。心持ちとしては、眠っていた獅子の尾を踏んでしまった子兎と同じそれだ。
赤く燃える瞳に、ぎこちない笑みを残して固まったガイアの姿が映し出される。はてさて、一体この場をどうしたものか。ガイアが自らの取るべき次の言動を決断するよりも早く、ディルックの影が揺れた。
──ぱしゃん、
視界の隅にグラスが煌めいたことを知覚したとほぼ同時、ガイアの嗅覚がただひとつの刺激に埋め尽くされる。それは、噎せ返るほどに濃く深い酒の香り。
濡れた肩先からこぼれ落ちた雫が床に弾ける水音を聞いてようやく、ガイアはディルックによって酒を浴びせられたのだということを理解した。
「──ああ、すまない。手が滑ってしまった」
すまないと言うなら、せめてもう少し抑揚をつけた口調で言葉を紡いでくれないか? 現実逃避混じりに内心で紡いだその言葉を、もちろん口に出来るわけもない。
右肩に濡れた感覚を覚えながら表情を引きつらせたガイアは、ひしひしと肌を刺す「嫌な予感」に、早くここから逃げなければという焦燥を抱いた。理由も意味も、もちろん欠片だって分かりはしない。けれど、経験則的にこの警鐘には従った方がいいということだけは確かに理解出来た。
だからこそガイアは、「まあ気にするな」と笑って席を立とうとした。のだけれど。
「そのままでは服に酒の色と匂いが残ってしまう。風邪をひいてもいけないし、上のシャワールームを貸そう」
その未来を読み、かつ先手を打つようにディルックの言葉が鋭く放たれた。その鋭さに思わず言葉を詰まらせるガイアだが、ここで負けてしまってはいけないと逆らうように再び口を開く。
「いや、これぐらいはどうってことな──」
それ以上の言葉は許されなかった。
「ガイア」
首筋に鋭いナイフを突きつけられたような感覚。
たった3音に乗せられたその威圧感に、今度こそガイアは抵抗の無意味さを理解させられる。
……どうやら自分は、彼のその言葉に従う他ないらしい。
背筋を伝い落ちていった冷や汗に、喉が震えて呼吸が詰まる。手足に枷が嵌められ、心臓に重たい石が括りつけられているかのようだった。
「おいで」
ガイアが席を立つ微かな音は、酒場の喧騒の中に呆気なく溶けて消えていった。
***
エンジェルズシェアの3階にあたる屋根裏部屋には、何かがあった際に従業員が店に泊まり込むことができるようにと、ある程度の設備が整えられている。
部屋の中央近くに佇むローテーブルの上には、煌々と輝く唯一の光源であるランタンの姿。ディルックに連れられ初めてその空間に足を踏み入れたガイアは、その灯りに照らし出された天井は低くともそれなりに広さのある屋根裏部屋の姿に、存外立派なものだなと感嘆の言葉をこぼした。
その感情のままに思わず止めてしまいそうになった歩みも、ここに辿り着くまでに何故かガイアの右手首を掴み取ってきた彼の左手によって諫められてしまう。
跡が残るほどの力ではないにしろ、ガイアであっても容易には振りほどくことの出来ないその戒めに、またしてもガイアの中の『意味不明指数』が背を伸ばした。そろそろ現実逃避にも疲れてきた頃なのだが、目の前にいる男の機嫌は一向になおってくれる様子がない。
頭の中に自らのここまでの言動を何度も反芻してはみたのだけれど、ガイアにはそのどれがこんなにも彼の怒りを呼んだのかが分からない。
正直に言ってお手上げとしか評しようのない現状に、まあひとまずは彼に従っておくかとついにガイアも諦めを抱き始めた。そんな中。
ガイアを引き連れて屋根裏部屋に足を踏み込んだディルックは、そのまま迷いのない足取りで部屋の奥へと向かっていく。進行方向にある壁と扉の姿に、恐らくそこが彼の言ったシャワールームなのだろうと理解した。
屋根裏にシャワールームまで完備するなんて、やはり大富豪のすることは桁が違う。そんな謎の感心を胸に落としたガイアは、ふと、あることに気づいた。
気づいた、というよりは思い至った、と言った方が正確だろうか。確信にはまだ足りない、けれども酷い存在感を孕んだ『もしかして』の声。
「……おい、旦那?」
「……」
返事はない。ガイアの目の前で浴室へと繋がる扉が開け放たれた。闇に満ちたその空間にも、一瞬にして光が満ちる。恐らく、目の前の彼がその元素力でランタンに炎を灯したのだろう。
脱衣所と浴室とが簡素な衝立だけで分かたれたその空間を、なおもディルックは真っ直ぐに突き進んでいく。土足のまま、そしてもちろん、ガイアの手首を捕まえたまま。
「旦那、流石の俺も風呂ぐらいはひとりで──」
きっと何かの冗談だろうと、ガイアも軽口混じりに言葉を飛ばす。けれど、浴室に反響したその声は困惑に情けなく震えていた。
小さなバスタブを無視して、ディルックの爪先はシャワーヘッドの掛けられた壁の前でようやく立ち止まる。これで今度こそちゃんと自分の言葉を聞き入れてもらえるだろうかと、ガイアは声を生み出すために唇を開く。
「──ディル、ック……?」
けれどもその唇が紡いだのは、言いたかった言葉ではなく、ただ目の前に立つ男を指し示す音の並びだけ。その直前に強く腕を引かれて壁に叩きつけられた背中が、恐怖を覚えるほどの冷たさに襲われる。
右手首を彼の左手によって壁に縫い付けられたまま、ガイアはただ目を白黒とさせるばかり。彼はこんなにも思惑の読めない存在だっただろうかと、心臓が軋むような震えを訴えた。
抵抗の選択肢も頭に浮かばず身を固めたガイアをよそに、ディルックは自由なその右手をシャワーの蛇口へと伸ばす。それを回せばどうなるか、なんて考えずとも分かることではあるのだが。
ザア、と頭上から冷水の飛礫が降り注ぐ。その冷たさのせいか、身体が驚きにびくりと跳ねた。
一瞬にして濡れそぼっていく髪が、服が、重さを増して肌にまとわりついてくる。その煩わしさも、不快感も、今は気に留めてなどいられない。
何故なら、網膜を焼き尽くす赤い色があまりにも強く鮮やかで、呼吸すらおぼつかなくなってしまったから。
視線の先で、ガイアのそれと同じく水を孕んだその髪先から雫が滴り落ちた。狭い浴室に男がふたり、服を着たまま水に濡れていく。さらにはお互いを真っすぐに見つめ合っているだなんて、これは一体何という喜劇だ?
じわじわと冷水から温水へと変わっていく温度に、肌がひりひりとしみるような痛みを訴える。
いいや、違う。この痛みは水の温度のせいではない。──これは、きっと。
燃やされているのだと、思った。
静かに、けれども激しく燃え盛るその『炎』に焼かれているのだと、そう思った。そう感じた。
赤い瞳に。
こちらを真っ直ぐに見据える、彼の瞳に。
床に膝をつき、喉をかきむしってしまいたくなるような激情がガイアの心臓を食む。あがりかけた悲鳴は喉元に潰れ、空気の掠れる不格好な音だけがシャワー音の中に溶けた。
「……なあ、旦那」
「……」
「おい、……っ、ディルック‼」
訴えかけるように名前を呼んだ。ざあざあと煩い水音にかき消されてしまわぬよう、喉が張り裂けんばかりの声量で。彼の名前を。
──そんな目で、俺を見ないでくれ。
「……少し、黙ってくれ」
静かな声が鼓膜を叩く。ガイアがその言葉の意味を理解したのは、唇に自分以外の誰かの温度を感じたとほぼ同時のことだった。
瞳が見開かれる。そのせいでほとんどゼロ距離まで近づいていた赤に網膜が痛いほど苛まれてしまって。髪先からこぼれ落ちてきた水滴が、じわじわと視界を滲ませていく。
──酒で満たされたグラスの中に溶けていく氷は、こんな心地なのだろうか。
降り注ぐぬるい湯の中に、ふたつの温度が混ざり合う。感じた熱さは、自らの体温が冷え切っていたせいだろうか。それとも、あちらの体温が高すぎたせいだろうか。脳を溶かすようなその温度に心臓がわななく。
薄い皮膚同士が触れ合う感覚は、どこか酒を浴びた時の酩酊感にも似ていた。けれど、その奥にはそれ以上に質の悪い何かが確かに存在していて。
それを理解してはいけないと、それに名前をつけてはいけないと、本能が本日何度目かになる警鐘を高らかに鳴らした。
逃げなければ。その意志に従うまま、ガイアはその身を捩る。けれど、それを許さないとでも言わんばかりにガイアの呼吸を食むその口づけは深まって。じわじわと身体を侵していく酸素の欠乏に、思考回路もくらくらとし始めた。
口づけとはいっても、それはただ唇と唇を重ね合わせただけの酷く稚拙で幼気なもの。けれど、それでも。相手が他でもない彼であるというだけで、ガイアにとってその行為はあまりにも特別過ぎるものだった。
どうして。何回何十回と胸中に繰り返した言葉が、あふれるように唇へと至る。けれど、塞がれた唇ではもちろん声なんて紡げるわけもなく。
せめてもの非難を込めて、ガイアは握った拳を目の前の男の胸に叩きつけた。ろくに力も籠もっていないその抵抗では、ディルックに一矢を報うことも出来はしなかったのだけれど。
ようやくガイアに呼吸の全てが返されたのは、それからさらに十数秒後のこと。ここまでのたった数分程度の時間が、ガイアにとっては千秋のごとく長い時間に感じられた。
離れていった唇に、残されたのは胸が焼けるような温度の残滓だけ。じくりとしみるような痛みを訴えた心臓には気付かないふりをして、ガイアは鋭くした目をディルックへと向けた。こんな無体を働かれたのだから、睨むぐらいの権利はこちらにあって然るべきだろう、と。
きゅい、という音を最後に、頭上から降り注いでいた雨が止む。けれど、髪先や服の裾から滴る雫が止まることはない。ずっしりと重たくなったそれらは、もう取り返しもつかないぐらいに濡れそぼってしまっていた。
酒を浴びせかけられただけでなく、まさか全身を濡れ鼠にされてしまうとは。非難をありったけ込めたガイアの視線にも涼しげな表情を崩さないディルックに、最早精神的疲労の方が勝ってしまったガイアは肩を落としてため息を吐いた。
そんなガイアへ、おもむろにディルックの指先が伸ばされる。
とん、とまるで心臓を掴むかのように胸へと置かれた手のひらに呼吸が浅く止まった、直後。
その場所を中心に、身体全体が温かな熱に包み込まれる。ぱちりと瞬かせた瞳を見開いた時にはもう既に、ガイアの衣服からは水気の全てが奪いさられていた。
知らぬ間に、ガイアと同様に濡れそぼっていたはずのディルックからもその名残は消え去っていて。どうやら彼の元素力によって水を蒸発させたらしいと気付く。
なんとも正確で繊細な元素力のコントロールだ。そう易々と出来ることではないその技法に、もちろんガイアは感嘆する──わけもなく。逆に胸を満たした苛立ちを隠すこともせず、彼にしては珍しい棘ついた口調で目の前に貴公子様に問い質す。
「……それで? 一体これはどういう了見だ?」
さすがにそろそろ答えてもらうぜ? という圧力を言外に滲ませながら、ガイアはディルックを見つめる。一方のディルックといえば、相変わらずの仏頂面を携えてそこに佇んでいて。
ぴちゃん、と浴室に水音が反響する。
ほとんど前触れもなく、胸倉を誰かの手に捕まれ身体を前方へと引かれる。誰か、なんてもちろんこの場所にいるのはガイアの他にはたったひとりだけ。
耳元を吐息がくすぐっていく。頬を掠めていった柔らかな感覚は、まさかあの燃えるような髪先によるものだろうか。
「……やはり、君には酒の匂いの方がよく似合う」
その言葉に思い出したのは、つい十数分前に階下の酒場で彼と交わした会話の内容。自らが身に着けていた香膏の存在。その話をした直後に機嫌を悪くしたように見えた彼のこと。ここまでの一連の行動。そして今の言葉。
全ての情報が、点と点とが繋がるように結び付けられていく。それは、ええと、だから、つまり?
間近に揺れていた気配がゆっくりと離れていく。けれど、相変わらずガイアは間に合わない情報処理に身体を石化させたまま。
困惑に狼狽える視線を、助けを求めるがごとくディルックへと向けた。自分をこんな蟻地獄へ落とし込んだのは他でもないその男であるというというのに。同時にそこからガイアを救い上げる術を持っているのも、この世界にただひとり、彼という存在だけなのだ。
ガイアの視線に気づいたディルックの瞳が、微かに細められる。表情と呼ぶにはあまりにも変化に乏しいそれが、どうしてかガイアには『優しい微笑み』に見えた。見えてしまった。
直後脳裏にフラッシュバックしたのは、唇に触れたあの温度と感触。自分を見据えた彼の瞳の奥に揺れていた、全てを焼き尽くしかねないほどに激しい炎の姿。
思考回路が焼き切れる感覚がした。
じわりと頬に熱が集まったのはきっと、そう、風邪のひき始めだ。絶対にそうに決まっている。それ以外なんてありえない。
「手荒な真似をしたことは謝ろう。──『午後の死』を1杯。それでどうだ?」
酒を煽れば、この胸に燻るどうしようもない感情をかき消すことができるだろうか。そんな淡い希望を抱いて、ガイアは言葉もなくディルックの提案に頷いた。
……その後の彼らが一体どうなったのかは、また別のお話ということで。
2020/12/8
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