いつにましてその日は暑かったような気がする。見慣れた文字の羅列を目で追いかけては書類を仕分け、ペンを握る手が汗ばむたびうんざりとした気分になった。暑さのせいなのか睡眠不足の所為なのかくらりと一瞬眩暈がして、彼は額に手を突いて溜息を零した。


「ジャ、ジャーファル様」


恐る恐るといった様子で話しかけてきた文官の手には次なる仕事が抱えられていることだろうと社交辞令の笑みさえ浮かべることができずに見上げれば、彼はその手を両袖の中に仕舞い込んで心底困ったような顔で告げた。


「鍛錬場で、シャルルカン様が剣術試合なるものを始めたようで……」


だから何だと突いて出そうになる言葉を飲み込み、努めて穏やかに微笑む。この忙殺されそうなときに無意味な事象を告げてくる阿呆はいない。
彼は柔らかく柔らかくと自身に念を押し、漸く言葉を吐き出した。


「……相手は、武官ではないのですか?」
「武官ではないようです。侍女のロゼが、ジャーファル様に伝えてほしい、と」


――眩暈がした。これは暑さの所為でも寝不足の所為でも膨大な仕事の量のせいでもない。
がたりと物々しい雰囲気を纏い立ち上がった彼に、文官は三歩も四歩も後ずさった。


「すみません、少し席を外させていただきますね……」


にっこりと、その双眸が細められることもなく口元だけを歪めた微笑みに、その場にいた全員が凍り付いた。
腕に絡む眷属器の感触を袖の上からぎちぎちと握りしめて確かめながら、脳内に思い浮かんだたった一人の顔に細く息を吐く。――いや、もしかしたらシャルルカンが無理にでも稽古をせがんだのかも知れない。それならば彼女にこの苛立ちをぶつけるのは不条理である。というよりむしろその可能性以外あり得ないだろう。
彼は足早と廊下を駆け抜け、鍛錬場のある銀蠍塔へ急いだ。





甲高い音が響く。使い古された刃こぼればかりのする刃で鋼を受け止めるたび、押し通さんとする力で何度も弾かれそうになる。そのたびに後方へ飛び退いて体勢を整えていた。


「ッさっきから避けてばっかりじゃねえか!」
「私はシャルルカン様がおもってるほ、ど――!!」


言い終わらないうちに眼球に触れる寸前のところを白刃が横切る。反射で首を後ろに仰け反らせていなければ、今頃両目とも潰れていたことだろう。
握りの悪い柄を右手で握りしめ、彼の中心を取るよう構えた。聞こえるのはお互いの呼吸の音だけで、時折誰かの衣擦れの音が響く。
――剣士としての誇りを思うのであればすぐにでも向かっていきたいところではあるが、ここは堪えることが最善なのだ。彼と本気で手合わせをしたところで勝算は少しの見栄を張って五分といったところだろうが、仮に全力で手合わせをしてどうなるかなど想像に難くない。これ以上自分の立場を悪化させるような真似だけは避けたかった。できればこのまま何事もなくシンドリアで働き、自分のもといた場所に帰る方法を探すほうが一番の近道だということは言うまでもない。それをむざむざと手放してしまうことなどできるわけがない。
左のつま先に力を込める。細く長く息を吐く。両刃の剣をしかと握り、彼の双眸を見据えた。


「……分かりました、全力で行かせていただきます」


に、と楽しげに笑った口元が言葉を紡ぐより先に踏み込み、振り下ろした。当然それは半歩身を引くことで軽やかに避けられ、彼は真っ黒い刀身を下から掬うように斬りかかった。キィンとこめかみが痛むような音を響かせその攻撃を防ぎ、押し合うわけでも引くわけでもなく微妙な力関係を維持したまま鍔迫り合いになる。ぎちぎちと鋼のこすれあう音を頼りにナマエが彼を睨みつけた瞬間、ふわりと後退して力を抜き、僅かに開いた左脇腹めがけて斜めに振り薙いだ。腰を折り曲げるようにして回避したシャルルカンは不安定な体勢にも拘らず剣を振り上げ至近距離でも躊躇なく振り下ろす。


キィンッ。


刀身を弾くことで軌道を変え、彼女は数歩分まとめて飛びのく。ブーツの底が硬い地面とこすれ、僅かに土煙が舞った。


「お前――」
「……何やってんだあんたら……!」
「――え?」


低く地を這うような声とともに身を刺すような殺気を感じ二人ともほぼ反射的に振り返れば、それよりも早く視界を赤い何かが過ぎ去って行った。――そう感じたのも束の間、気づけば芋虫宜しくぐるぐるに縛り上げられていた。
理不尽だ、と叫びそうになったのを飲み込み向かい側にいたシャルルカンを見遣れば、ナマエよりも明らかに悪意のこもった風に吊し上げられていた。この高い天井の梁を介して蓑虫のごとくぶらんぶらんと揺れる彼と比べれば、芋虫などまだましである。
ナマエはぶら下がる蓑虫とそうした本人とを交互に見やり、あまりの気配に口元が引き攣った。


「ジャ、ジャーファルさん……」
「二人とも……一日中逆さ吊りされてたいのでしたら、遠慮せず早く言ってくれればよかったのに」


ぎゅう、と彼が両手に力を込めただけで、体に巻き付く赤い紐がさらにきつくなった。窒息死、いや圧死だろうか。内臓が悲鳴を上げている。痛いという次元を超えて頭に血が上っておかしくなりそうだ。
口を塞がれて喋ることさえかなわないシャルルカンには同情するほかないが、逆さ吊りにされなかっただけジャーファルの情けに感謝したいところである。
この状態で逆さにでもなれば確実に意識を落としている。


「仕事は、どうしたんです……?」
「え、っと……」
「まあ大方シャルルカンに引っ張られてきたんでしょうけど、ああいうのは腕を斬り落とすぐらいの勢いで拒否をしないと」


ふがふがと言葉にすらならない声を上げてもがく彼は、どうやらまだ元気そうだ。はあと盛大な溜息を二度吐いたジャーファルは、とてつもなく不満げにゆっくりと赤い紐を解いて手繰り寄せた。
押し潰されていた肺が膨らむ感覚に息を吐き、両手をついて起き上がる。
どすんと派手な音を立ててシャルルカンが地面に落下した。


「す、すみません……」
「勝手な行動は慎んでください」
「まあまあジャーファル、そうかっかするなって」


声だけが突然響き、その主を探せば彼はジャーファルの背後からひょっこりと顔を出した。はっはっは、といつものごとく楽しげに笑うシンドバッドの後ろから、さらにもう一つ影が伸びている。
彼女はナマエの姿を確認するなり猪のように猛進し抱き着いてきた。


「ロ、ロゼさん……! ごめんなさい、仕事――」
「シャルルカン様と剣術勝負なんてどんだけぼろぼろになって帰ってくるかと思って……!」
「俺だってそんくらいの加減するっての!」


先程までずっと噎せていたシャルルカンは漸く落ち着いたのか声を荒げたが、忍び寄る影に思わず正座して視線を泳がせていた。


「シン、あんたまでなんでここにいるんですか! シャルルカンも、ついこの間事情を説明したばかりですよね?」
「楽しそうな声が聞こえたんでな、つい」
「ちょっと手合わせして終わりにしようと思っ――うっわ! ちょジャーファルさんさっきから俺の扱い酷くないですか!?」



ひゅっと風を切る音とともになんとも不思議な形状をしたナイフのようなものが、彼の頬をすれすれによぎる。にっこりと、それはもう穏やかなほどの微笑みを湛えたジャーファルは、手の甲が白くなるほど赤い紐を握りしめていた。――今なら般若が見えるような気がする。


「すみません手が滑りました」


怒りが頂点に達した時のフレンも怖いが、彼はその比でない。乾いた笑みが張り付き、思わずロゼと顔を見合わせた。もう二度と仕事はサボるまい。
彼のその微笑みといえば聞こえはいいがただ目元が弧に歪んでいるだけにの表情に王様でさえも何かを言う気力もそがれ「さ、仕事するか」というシンドバッドの声に全員が立ち上がる。今のところ会って一週間足らずではあるが、彼の口から仕事をするという言葉を聞いたのは初めてだ。
ナマエがズボンの砂を払っていれば、剣を鞘に納めながらシャルルカンが歩み寄ってきた。


「左利きだろ、お前」
「っ、え?」


ぐ、とまたもや掴まれたのは左手首で、彼は手のひらを見るなり眉根を寄せて手を放した。


「もとは左で、手加減して右でやってたのか? ……右利きの剣士が、相手の左側を咄嗟に狙うなんてそうそうしねえよ、やりにくいしな」
「……確かに私は左利きです。でも貴方を見くびって、手加減をしようとしたつもりはありません。右で振るう場合が大半でしたから」
「そのつもりがあろうがなかろうが、手ぇ抜いたのは事実だろ」


既に歩き始めていたジャーファルとシンドバッドが足を止めて振り返る。二人の耳元でロゼが何やら呟いていたが、そに中身までは聞こえなかった。
彼が憤る理由は分かる。彼女も、相手が無意味に手を抜いていたと知れば悔しくてたまらなくなるだろう。剣術が純粋に好きだという思いが一致していたのであれば尚更だ。それは、わかってはいた。


「……すみません」


剣士崩れや衛兵くらいならば、例え多人数であろうと応戦できる自信はあった。旅をしてきた中で身についた自信は、今ナマエが感じている歯がゆさの大部分を占めている。
シャルルカンは一層眉間に皺を寄せて、小さく舌打ちした。


「ならば、もう一度剣術勝負をしてみればいい」
「シ、シンさん?」
「このあときちんと仕事をすれば、ジャーファルも怒らないさ!」
「あんたが一番してないんですよ!」


ぎろりと睨みつけた彼の目を物ともせず、彼はロゼを見やる。


「アリババ君たちを連れてきてもらえるかな? 彼らにとっても丁度いい機会だろう。ヤムライハと中庭にいるかもしれないな」
「はい、仰せのままに」


ぱたぱたと駆けていった彼女の背を見つめながら、隣でシャルルカンが「おい」と声を上げた。


「今度は、最初から左でやれよ」
「……もちろん」


落ちた剣を拾い、笑った。
本当は自前のものがよかったが、そこまで贅沢は言えない。こうして全力で身体を動かせる機会にだけでも感謝しなければ。
ただ少しばかり、ユーリに斬られた傷が疼く。額に浮かぶ汗を肩口で拭ってから、剣の柄を左で握りしめる。
視界の端でジャーファルが溜息を吐くのとシンドバッドと話をする姿が映った。相変わらず不服そうな顔をしているが、二人で話をしているうちにジャーファルが微かに瞼を上げて驚いたような様子を見るに何か裏があるようだ。どちらにせよ、目の前のこの男と手合わせできるのならばそれでいい。
長い髪を適当に縛りなおして、息を吐く。南方特有の生ぬるい風が頬を撫でた。


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