どこまでも遠い青い空を見上げることに飽きることはなかった。一つの国の中にいるというのに結界魔導器による遮りはなく、それなのに城下に住む人々の笑い声は絶えることはない。もしあのまま、あの世界で生きていればこんな光景を見ることができたのかもしれないのだと。不意によぎったそんな思いに心臓の奥のほうが痛むより先に、彼女を呼ぶ声が響いた。
「ナマエ、終わった?」
焦げ茶色の髪を後ろで丸くまとめた長身の女性が、箒と水の入ったバケツを提げて歩み寄ってくる。ほんのりと褐色の肌は健康的で大きく笑う姿がとても印象的な彼女は、五日程前から世話役として付き添ってもらっていた。
「はい、終わりました」とこめかみに伝った汗を手の甲で拭いながら、掃除用具を手早くまとめ既に他方へ歩き始めた彼女の背を追いかける。
――五日前、ここで働かないかと思いもよらぬ誘いを受けたナマエは、出ていくつもりではあったのだがこうして働かせてもらうこととなった。この国を出ていったところで行く当てもなければ、この世界の成り立ちを知らない彼女にとってそれはこの上ないほどの幸運ではあったけれど、うまく行き過ぎているようで不安も少なからず覚えた。それでもやはり、海上から引き揚げ治療にあたってくれたシンドバッドを始めとした彼らには恩義がある。ここで何もせず礼だけ添えて立ち去るのは不義にあたるだろう。
コツコツとブーツの踵を鳴らしながら歩いていれば、世話役の彼女――ロゼは少し背を丸めてナマエの足元をのぞき込んだ。
「そういえばナマエ、暑くないの? ブーツもズボンも」
「え、ああ、慣れてますから。それに、スカートとかワンピースとかひらひらしたものって、苦手なんです」
頭一つ分より高いロゼを見上げれば、彼女は口を歪めてナマエの髪を後ろ髪を撫でた。後ろで簡単に一つにまとめただけの髪は、陽光に青色のような色味を残して風に揺れる。
「折角のかわいい顔じゃない。髪も長くてきれいなのに、ひとまとめにしちゃって」
「かわいいだなんてそんな……ロゼさんの方が、よっぽど素敵ですよ。髪は本当になんとなく切ってないだけですから」
くすと一笑と苦笑いを織り交ぜれば、ロゼははにかみながら「若さには負けるわ」と目元を細めた。
ひらりと白の長いワンピースが翻り、太陽の照り返しが眩しくて思わず目を瞑る。白というのは確かに清潔感があってきれいだとは思うが、この国の日差しにその白さはあまりに眩しすぎるのだ。眩しいとこぼれた呟きに、彼女はそのうち慣れるわと楽しげに笑った。
「さ、早く緑射塔の掃除を終わらせましょうか」
「そうですね、もう太陽が真上ですし」
そう言って真っ青な空を首を捻りながら見上げれば、隣でロゼが高い声を上げた。
「ナマエ、前!」
「へ? ぐふっ!」
その声に弾かれるように顔を戻せば鼻っ面に衝撃が走り、思わぬ障害物にふらついた足はすぐにバランスを崩して尻餅をついた。ばしゃんと派手な音を立ててバケツが放り出され、薄汚れた色の水が飛び散る。
濡れた左手で鈍い痛みの走った鼻を押さえ、勢い相手を見上げればそこには色濃く焼けた肌を前面に晒した白髪の男が立っていた。
「悪い! 前見てなかった、大丈夫か?」
「いえ、こちらこそすみません、ついよそ見して……」
彼は悪かったと言うとすっと手を差し出した。ナマエは苦笑いを零しながらその手を握り、すみませんと零しながら立ち上がる。
どうやら彼にバケツの水をお見舞いせずにすんだようで、彼女は内心ほっと息を吐いた。彼が着ている上着のような袖口の広い服はそれはそばかすの散ったあの人を思い起こさせ、何とはなくしに冷汗が滲んだ。――あの時の緊張感というのか、あの場の雰囲気はおそらくこの先しばらく忘れられそうにない。
そんなことを思っていれば、未だ握った手を放さずにこちらを見つめる彼がぐいと顔を近づけてきた。あまりの唐突さに後ずさった左足がバケツを蹴る。カランカランと金属音が響き、漸く思い出したかのようにロゼが声を上げた。
「シャルルカン様」
色黒の肌に乗る瞳を二度瞬きさせた後、彼――シャルルカンというそうだ――はゆっくりと後ろに下がって転がり落ちた箒を拾い上げた。
「お前、あん時のやつか」
「……?」
少し垂れた瞳がぎらりと熱を帯びる。その内に覗く好奇心に似た色を、最近よく受けるようになっていた。
彼女はシャルルカンの言葉に頭の中を引っ掻き回し、まじまじと彼の顔を見つめてみた。
「――っああ、あの時の!」
無意識に大きくなった声を塞ぐようにあとから手をやれば、彼は眉を引くつかせて片耳を押さえていた。「ご、ごめんなさい」と誤魔化すように笑い、それからすっきりとした面持ちでもう一度彼を見上げた。
頭の中の引き出しから引っ張り出したのは、あの日甲板で彼女の腕を掴んだ人の顔だった。その時の彼は確かに褐色の肌に映えるような白い髪をしていたかもしれない。――というのも実際は人の顔をはっきりと覚えているほどの余裕があった状況ではなかったので、相手から言われなければ気づかなかっただろう。
「あの時は、助けてくださって有難うございました」
深々と頭を下げると頭上で息を詰める声を聞いた。もしかしなくとも、そばかすの彼、ジャーファルにあれこれと何か言われているのだろう。隣でただ一人状況のつかめないロゼの不安定に揺れる足元が目に入り、小さく笑って頭を上げた。
「五日前からお世話になっています、ナマエと申します。王様のご厚意により、働かせていただけることになりました。よろしくお願いします」
シャルルカン様、とにこりと微笑む。悪意など最初から毛ほどもないのだから、仲良くしてくださいと言う言葉に間違いはない。彼は項に手を置き、それから口元をそっと緩めた。
「ああ、よろしくな」
そう言って再び差し出された右手に、少しだけ戸惑いながら握り返した。
(……豆だ、)
先程は気づかなかったその手のごつごつとした感覚に、目を細める。彼の指の付け根に盛り上がるようにできた豆は剣術や槍術を専門にしてきた人の手で、その腰に提げている剣が酷く羨ましく思えた。――長く旅を共にしてきた剣に触れていないというだけで、どうにも心細くなってしまうのはもはや仕方のないことなのだろう。それだけ愛用も、頼りにもしていた。
ふと頭をかすめた思いに思考を傾けていると、不意にシャルルカンが年相応の快活とした笑みを浮かべた。
「あんたもやっぱり剣術好きなんだよな?」
「え」
握る手を返され掴まれた手首を目の前に持ち上げられると、ナマエの指の付け根を指差した。
「ほら、女にしちゃあ随分振り抜いてきた跡だぜ」
「……ほどほどに、ですよ」
「んなことねえだろ、よっぽど小さい時から剣術やってなきゃこんなんにはならねえよ」
彼が嬉々として手を見つめていると今まで押し黙っていたロゼが声を上げる。彼女は呆れたような溜息を零しながら二人の間に入り、失礼ですけどと一言断ると、
「シャルルカン様、だからモテないんですよ」
「なっ」
「ナマエは女の子なんですから! ねえ?」
「え、あいや私はとくに気にしてないですよ。好きなのは本当ですから」
顔の前で手を振り笑えば、シャルルカンは身を乗り出してもう一度手首をつかんだ。その勢いに思わず一歩引いた距離を詰めるようにその目鼻立ちの整った顔を近づける。
「鍛錬場行こうぜ!」
「――はい?」
「あんたも剣士だろ?」
「そ、うですけど私いま仕事中で――」
「向こうに剣ならあるからよ!」
有無を言わさぬ間にぐいぐいと手を引いて彼は歩き出す。後方でロゼが唖然としたのちすぐに「シャルルカン様!?」と声を上げ制止を呼びかけるも、当人はどこ吹く風と楽しげに鍛錬場とやらに向かっていた。ナマエよりも幼い彼の表情がなんだか弟のようにも見え、元来好戦的な性質も相まって内心久しぶりの昂揚感に似た何かを感じていた。
「ってそうじゃなくて、ジャーファルさんは、」
「……あー……ばれなきゃ大丈夫だろ」
一瞬これでもかというほど表情を歪めた彼を見るに、こんなことは日常茶飯事なのだろう。ばれなければ大丈夫、とは言ってはいるが、既にすれ違った文官たちが怪訝な目を向けてきたのだからジャーファルの耳に届くのは時間の問題のようだ。
日々疲れ切っている彼にこれ以上面倒をかけるのは申し訳なく、仕事に戻りますと伝えようと呼び掛けると、シャルルカンが楽しげな笑みを浮かべながら振り向いてきたので、もう何も言えなくなってしまった。
(悪気はないんですジャーファルさん……)
心の中で十は唱えたところで、ああでも身体を動かせるのかという久しぶりの感覚に、しかも相手はおそらく強いだろう、ふつふつと沸き立つ思いに背中が震えた。
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