ジャーファル様に子供が、と誤解を生んだ噂は広まるのも早く、提出書類を渡しに来る文官たちがみな口を揃えてその話をしてくるものだから、まったく仕事に集中してほしいものだ。
――両親の面影を求められているのは分かる。丁度良くナマエとジャーファルは、そう年の離れていない母と父に見えなくもなかったのだろう。だからといって、このままそれが定着してしまうことを黙認することはできない。そういう関係性ではないのだ。
目で辿っていた文字列が止まる。
ナマエと、名を呼ぶことに違和感がある。最初こそ、彼女は猜疑の対象であったから名など呼ぶべき者ですらなかったのだが、今はそうではないのだと分かっている。けれど、どうしても一瞬喉の奥で詰まる。始まりはどこからだったろうか。恐らく、彼女が魔法によって退行したあの頃からだ。あの頃の彼女のおかげで、名は呼ぶべきもので、その人を表すものだと知った。だからこそ、呼ぶたびに違和感を覚える。
ジュリィを抱えていたその顔を、人は母の顔だというのだろう。ジャーファルにとっての母の記憶など乏しいが、シンドバッドに出逢ってから気を遣ってくれた周りの顔はよく覚えている。
気持ちが悪いとはいかないが、何かどこか、足りない感覚だ。
名なのだろうか、雰囲気なのだろうか、表情なのだろうか、ナマエという彼女自身にだろうか。なにが、なにを、足りないと感じるのだろうか。
――集中していないのは、自分の方だったか。
両目を瞑り、目頭を押さえる。息を吐いたところで、もう一度書面に目を通し始めた。
白羊塔に差し込む日差しは柔らかくなっていて、外で待っていると笑ったナマエを思い出した。
シンドリアでも日が暮れた中、外に居続けることは酷だろう。我ながら、あのときの返答も違和感を拭えない。小さい子には甘いのだという自覚はある。ジュリィは確かに、シャルルカンやヤムライハたちの時のようにかわいい時期だ。きっと、ジュリィの所為なのだろうなと、そう落とし込んだ。
それから漸くいつもの集中を取り戻し、海上貿易についての取りまとめをしていれば、遠くから泣き声が聞こえた。幼子のように泣きじゃくる声など、今は一人しか思い浮かばない。それでも、声を上げて泣いているのは初めて聞いた。
執務机から立ち上がり、小走り気味に部屋を出れば、少し先に思い浮かんでいた少女の姿を見た。けれど、隣にいるべき彼女がいない。武官がただ動揺を隠せないまま連れてきたようで、ジャーファルの姿を見るやいなや、その官服にしがみついてきた。
「じゃあ、ふぁ、」
「申し訳ありません、この子がジャーファル様のお名前しか呼ばないものですから、どうしたものかと…」
「どこでこの子を見かけたんですか」
「八隊の巡回途中に、中央通りのほうで呼び止められたと聞いています。ですが周囲になにも――」
「ナ、ちゃ、血が、とまらなくって、しんじゃう」
背筋が粟立つ。
死んじゃう、と泣きながら訴える彼女と同じ目線に膝をついて、一呼吸。動揺も焦りも、彼女にとっては余計恐怖心をあおるだけだ。努めて穏やかな声音で、ジュリィと名を呼んだ。
「ナマエと、どこまで行ったんですか」
「お、おうちに、かえりたいって、いった、っから、だから、」
肺が引きついて、うまく息を吐けない彼女の背を撫でる。
外に出るなと強く言っておけばよかった。彼女は戦えてしまう。一人でも、剣を抜いてしまう。それがどれだけ武官として正しい行動だったとしても、たった一人ではあまりに無謀だ。
――鐘の音が響く。もうすぐ、日が暮れる。そうすれば探し出すのはより困難を極める。
「ジャーファル様!」
ロゼが背後に現れたことから、なんとなく想像がついた。あらかじめ、予測はしていた状況だったということだ。
ふつふつと、腹の奥からせりあがる。
「ジュリィ、貴女はロゼと一緒にここに残っていてください。ナマエはちゃんと帰ってきますからね」
――これは、一つ二つの小言で済みそうにない。
* * *
がたがたと揺れる音がする。
薄らと目を開けると、視界はただひたすらに真暗で、木や埃の臭いが鼻を衝いた。身体はゆらりと地面の傾きに合わせて揺れていて、ここが船の中なのだと知った。手足を動かそうとしたが、右肩に走った鋭い痛みの所為で動かすことも億劫だ。手首は何か縄のような硬いもので縛られており、足は自由に動かすことができる。服も着ているが、腰に重みはなく長剣はないようだった。
――やはり、彼らは戻ってきていたようだった。ジュリィの家に近づいた途端、気配は増して、背後から飛び掛かられた一瞬、ジュリィを庇って迫る白刃から右肩を差し出してしまったのだ。幸い傷は深くはないので距離をとって三人を相手に、彼女が逃げる隙を作りながら立ち回っていた。八隊にジュリィが事を告げられたなら、彼らがまたシンドリア近海にいることは伝わるはずだ。ここは内部に潜り込んで機を狙うのもいいかもしれないと、わざと攻撃を受けたのだがどうにも当たりが強かったようで、想定外に気を失ってしまったというわけだ。詰めが甘いんだよまったくと、ユーリにはどやされそうだ。反論の余地はない。
おかげさまで船の外観も構造もわからないまま、こんな真暗闇に放り投げられたわけだ。
血の臭いや生きた獣の匂いや気配はしないので、すぐさま命が脅かされることはないようで、小さく息を吐いた。
「……にしても、何も見えない」
目も慣れれば多少は変わるかと思ったが、漏れる光もなければ分からないようだ。ただうすぼんやりと部屋の輪郭だけは捉えることはできた。
「……誰かいますか?」
物音だ。波打つ音に紛れて、衣擦れと、押し殺した呼吸が聞こえる。
視覚がなければ聴覚が研ぎ澄まされるようで、誰かから発せられる呼吸音は少し高い。規則的なそれに、恐らく相手は小さく、そして落ち着いてはいるのだろうと知る。
「……私はナマエです。話し相手に――!」
なってくれませんか、と笑いながら言いかけた言葉を飲み込んだ。
どかどかと乱暴な足音が一つ。歩幅は大きく、板が軋みを上げている。身長は高く体格もよさそうな男だろう。
――怖がるな。恐れるな。平静を保て、機転を利かせろ。でなければ、ここにいる意味はない。
深呼吸。吐ききる前に、ドアが開いた。
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