いつまで経っても、来るはずのあの衝撃が来なかった。
終ぞ聞こえたあの音は、とうっすらと目を開けてみれば、目の前にいた男がいない。上半身を拘束していた腕が、だらりと地面に落ちた。笑っていた男の姿もなく、僅かな呻き声が、右後方から聞こえた。そちらへと視線を寄越せば、目の前に圧し掛かっていた男が木箱に埋もれて伏している。影が、血にまみれて見づらくなった左の視界に落ちる。ゆっくりと見上げるより先に、ふわりと柔らかな服がかけられた。
「――なんで無茶をするんだアンタは……!」
これでもかというほど強く左腕の傷口を抑え込まれながら、その腕ごと身体を引かれた。――温かい、それでいて少し硬い感触が頬にあたる。殴られた傷の痛みに気づいてしまって、吸い込んだ匂いに、それが誰かが分かってしまって。
「――……ッじゃ、ふぁ、る、さん」
服の上を、赤の混ざり合った染みが広がっていく。
腕も足もちっとも動かず、ただ堰を切ってあふれ出ていたそれらを、止める術などもっていなかったのだ。
「っ……生きてて、よかった」
零れ続ける涙に、ただ、気を失ってしまわないよう意識を繋ぎとめるのに必死で、ため息混じりに落ちた言葉がなんと言っていたのか聞きそびれてしまった。
ナマエの涙もやっと落ち着き始めた頃、上空を旋回していたピスティが甲板に降り立った。もう既に臨戦できる敵はいないようで、ピスティはゆっくりと彼女に近づきながら、両膝を落とす。
傍から見ても彼女の身体が傷だらけで、周りに倒れ込む男たちの数に、いかに壮絶であったかなど想像に難くなかった。ピスティは今にも泣きそうな顔で、それでも笑いながら、ジャーファルの胸から顔を上げたナマエの頭を抱きしめた。
「…っナマエ、ごめんね、すぐに、見つけてあげられなくて」
「ぴ、すて、ぃ」
「ごめんねえ…!」
左腕に巻き付くクーフィーヤで顔を隠しながら、彼女はゆっくりとピスティを見た。左頬は原型を留めないほどに青く鬱血しながら腫れていて、瞼の上の傷から流れる血はいまだ止まっていない。濃い緑のそれも、随分と色が変わり始めていた。
「はやく、ヤムに、なおしてもらおうねぇ…!」
「ぴすてぃ、お願いが、あるの」
階段の奥を指差しながら、左手前の木箱にリトがいるとそう話すと、彼女は頷いて階段の影に消える。少しして、話し声と、二人の影が、階段から顔を出した。
ジュリィよりも少し大きな少年だった。
「ナマエさん…!!」
「リト、おまた、せえ」
怖がらせないようにと顔を隠しながらそれでも笑う彼女は、駆け寄った少年の頬を右手で撫でながら怖かったね、とそういった。リトは月明かりに煌めくブロンドの髪を、ナマエの胸元にうずめながら、声を上げて泣いていた。彼の泣き声に呼ばれるように、遠くに船影を見た。ジャーファルに背を預けたままのナマエが、それに気づくと、肩を震えさせながら、有難うございますと小さな声で呟いた。
* * *
少し先の霧の立ち込め始めた空に、魔法の気配を感じると報告したのは先行していたピスティだった。それはナマエが捕らえられてから四時間程度が経過しており、相手の船団を特定できずにいた頃だった。霧の発生源が人為的なものだったとすれば、隠したいものがその先に在るということだ。シンドリアの船団にはジャーファルやヤムライハ、シャルルカンやその他武官が待機していたが、ピスティの言を受け、魔導士の捕縛班と敵船を見つける先行隊に分かれることとなった。
シャルルカンが武官の指揮をとり、ピスティとジャーファルを見送ったすぐあと、後続に続いていた船団は五人程の魔導士と会敵、やはり霧は彼らが作り出したもので間違いなく、すぐ戦闘になるも捕縛までそう時間はかからなかった。
魔導士を締めあげて甲板にて聴取をしていれば、敵船を発見したピスティが上空を旋回しながら戻ってきたが、ジャーファルにより敵方は全滅とのことだった。――いわく、甲板に犇めく男の山を見たといった。彼女の表情は今にも崩れだしてしまいそうで、先に行っていると告げた背中は焦っていた。
暫くもしないうちに、霧の晴れた海原の先にぽつりと浮かぶ大きくはない帆船を発見したが、近づけどもやはり戦闘の音はなかった。
接舷するために船体を近づければ見えてくるその惨状に、シャルルカンが苦い声をあげた。彼の近くにいた武官も、その状況に言葉にもならない音を漏らす。十三隊の、と小声で交わされる言葉は、彼女を恐れるような言い方のようにも聞き取れた。思えば、あまり心地の良い会話ではなかったようにも思う。
彼女は、ジャーファルに肩を預けながら、右舷で船体の縁に寄りかかっていた。
「ナマエ……!!!」
敵方の捕縛をするため、武官たちが足場を下ろして移乗する上空を浮遊し、ナマエのもとに飛び降りた。状態の確認などせずとも、一番強い治癒魔法を施す。
「やむ、ありがと」
頬が腫れているせいかうまく言葉が回らない彼女の声に、ヤムライハは泣きながらもう一度杖を振った。乱れた官服の襟元に覗くシャツが破れているのを見つけて、また涙が溜まる。――予想していなかったわけではない。シンドリアに属する彼女が何も傷つかずに済むはずがないことなど、分かってはいたことだった。
「ナマエ、傷は、」
「だいじょうぶ、もう、血も止まったし、痛くない」
腕に巻き付きじっとりと重そうなクーフィーヤが、物語っている。治癒魔法を施したとしても、出て行った血液がすぐさま戻ってくるわけではない。体重の半分以上をジャーファルにかけたまま立つ青白い彼女の、一体どこが大丈夫なものか。
噛み合わない歯の隙間から、細い息が漏れる。
もっと早くに見つけていれば、もっと早く駆け付けていれば、と、そんな言葉が頭を巡る。彼女に、そんなことをぶつけたところで、もう遅いというのに。
歩みを進めようとしたナマエの足が、かくんと抜ける。倒れ込みそうになった体を抱きかかえるように受け止めれば、ひどい血の臭いがした。
「……っナマエ、よかった……生きててくれて、ほんとに…!」
ぼろぼろとこぼれた涙が、彼女の肩口に落ちる。耳元で揺れるピアスが、柔らかく光を受けながら頬を撫でた。
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