反対側で帆船とシンドリア船を繋ぐ足場を一人ずつ渡る様を見ながら、未だに手すりから動くこともできずにいた。一歩でも動けば眩暈に気を失いそうになる。余程出血がひどかったのか、潮風に身体は震えた。指先から凍っていきそうだった。
ヤムライハが抱きしめてくれていた熱はもう疾うになく、心配する声に頷きながらも言葉も出ない。リトが甲板に転がる長剣を見つけ出し、ナマエのもとに戻ってから彼もその場から動かなかった。言葉を交わすこともなく、あの時のジュリィのように傍にいた。
「ナマエ、ヤムライハと共にシンドリアに戻りなさい。このままでは貴女が――っ!?」
海上だというのに、低い地鳴りに似た呻き声を聞いた。波に揺られて船が僅かに傾く。月明かりを頼りに水面を見遣れば、何かの影が船の影で蠢いていた。
瞬間、硬いものにぶつかったかのような大きな衝撃が船を揺らした。全員の足元が崩れ、目の前にいたリトを抱きしめる。船同士をつないでいた足場が海に落ちた。
――船上が陰る。頭上から固まった海水が落ちてきた。
「ガァァアアア!!」
「くそ…こんな時にアバレウツボかよ!」
「シャル、あの大きさじゃ操れないよ!」
「わかってらァ!」
シャルルカンが抜いた剣から逃れるように、再び海に潜り込む。そのせいで激しく波が立ち、最早支えなしには誰も真っ直ぐ立ってはいられない程だった。手すりを掴むジャーファルが、空いた手でナマエの腰を抱えて支えているおかげで、周りの荷のように横滑りせずにすんでいる。酷い声と大量の海水を纏って再度姿を現したアバレウツボに、足場があった左舷が深く沈みこんだ。身体が宙を浮く。転覆する寸前に反動で跳ね上がる。腕にうまく力が入らない。リトの身体が、緩んだ腕の合間からすり抜けた。もう一度降下する足元で、彼の身体が縁からこぼれていく。ジャーファルの左手が、リトを捕えようとして緩む。遮るようにアバレウツボが首をもたげる。半ば横に倒れているマストを蹴って、シャルルカンが身を乗り出してきた。――彼では、リトに間に合わない。アバレウツボが鋭い牙を剥いた。昏い喉の奥から、雄叫びに合わせて海水が飛沫する。
両手で、手すりを掴んだ。
「ナマエ!!」
左腕が千切れるかと思った。飛び出した空は影が落ちていて暗い。自由落下するリトの腕を右腕で掴み、身体を捻って投げ上げる。ジャーファルの票が、リトを掴んだ。
アバレウツボの口が、覆いかぶさる。
――あの日、ザウデから落ちた日。海で揺蕩っていた生物の瞳に、よく似ていた。
ダァン!
前ほどではない衝撃が背中を打った。がはっと吐き出された息が、あぶくとなって視界を埋め尽くす。足元で波打つアバレウツボの身体は、夜の海の中では光ることもできなかった。
沈んでいく。あぶくが、身体を抜けて浮いている。白いあぶくのその先に、噛み砕かんと待ち構えている牙があるのだろうと強張らせていた。けれど、それは彼女よりも更に奥の何かに向かって通り過ぎていってしまった。
――苦し紛れに吐き出した気泡に混じって、何かが漂っている。酸素のない血液が身体を巡る音にまざり、声が聞こえる。
昏い底に落ちていくのに、何故か、眩しく感じた。
耳の傍を、それは過った。視界に入った一粒の光は、緑色に明滅していた。
(…エア、ル…?)
ふよふよと、そこから浮き上がる光は留まらず、やがて視界を覆う程になった。一帯は緑の光に囲われて、息の苦しさも、忘れていく。
この光は、エアルそのものだ。この世界でいうルフと同じ、けれど絶対に、見ることのできない光のはずだ。
「……ナ――」
声がした。眩しいほどの光の中で、声が聞こえる。
「――ナ……ナマエ、」
――そして、脳裏に、いや、視界に、ザウデのあの景色が浮かび上がってきた。
「ナマエったら、どこに行ってしまったんでしょう」
「おかしいわね、さっきまで一緒にいたはずだったのに」
「たく、これからアレクセイのとこだってのに、何やってんだか」
「ユーリ、そういういい方はないだろう。ナマエだって何か考えがあって…」
「まあ、何も考えるなってほうが、厳しいもんがあんでしょ」
「……ナマエ姉、ほんとは、戦いたくなかったんじゃないのかの」
「――だったら、言えばいいじゃない。こんなふうにいなくなるくらいだったら、話し合えばよかったじゃない!」
「ちょ、僕に当たんないでよ! と、とにかく! イエガーと戦ったあとまでは一緒だったんだ、もう一回戻ってみようよ」
エステル、ジュディ、ユーリ、フレン、レイヴン、パティ、リタ、カロル。
少しばかり濡れた服を絞りながら、彼らはそんな話をしていた。アレクセイと戦う前のようで、まるで、彼らを上から眺めているような、そんな景色だった。
――もう何年も昔のような記憶だ。この時まで、本当はきちんと自分の気持ちと向き合っていなかった。アレクセイを前に、揺らいでいた。ユーリや皆は、もう以前のようには戻ることのないアレクセイに、覚悟を決めていたというのに。本当は、まだどうにかなるのではないかと。
――そんな中途半端な思いをぶら下げていたから、ああなってしまったのだ。
これが過去を追憶して、後悔に嘆くための走馬灯だというのだろうか。いや、そんなことがあるはずがない。あの日は、皆から離れた記憶などないのだ。こんなふうに探されていた記憶など――。
ラピードが、ふいにこちらを向いた。目が合ったような、そんな、気がした。
「ナマエ!!」
昏い海の底。彼らの姿はあぶくのように消えた。誰かに腹を持ち上げられて、一気に海面に引き上げられていく感覚。大きな水飛沫の音を聞いた後、空気が、潰れた肺を広げるように急速に入り込んできた。
「っげほっげほ! がはっ、ぅ――」
耳元で、誰かの怒声が聞こえる。遠い。すべて、遠い感覚だ。水の冷たさも、風の寒さも、誰かの温かさも、水面の光も。
誰の名を、呼べばいいのか分からない。まだ、言い残したことばかりで、言わなくてはいけないことだらけで。
――まだ、ユーリたちは、あの世界で、あの時で、ナマエのことを探しているのだろうか。
▽ BACK TOP △