※ 夢主が冷静すぎたため、シンさんが語りすぎて没
いつも通り目が覚めた。温かくも鋭い朝日に目蓋を焼かれ、目を覚ましたくないという意識を根こそぎ奪っていくような日差しに小さな唸り声を上げて身を起こした。
――彼が迷宮攻略者で七つのジンを持ち、さらにはその身を半分堕転させていることで普通の迷宮攻略者とは違った感覚を持っているというのは自覚していた。それが良くも悪くも周囲に影響し、また周りの違和感を認識することができていたから、とくにこれといってどうのという優劣を感じたことはない。だから、目が覚めた時のこの違和感は、自分の所為かマギのせいかそれとも気分の沈んでいるヤムライハのせいか、身近な誰かの心持ちによる違和感なのだと勝手に決めつけた。
何故かいつも通り目が覚めたと思っていれば、それはいつもより早起きだったらしい。朝議にはまだまだ時間があるようで、彼は一人ぶらぶらと出歩いていた。といってもあまり出歩きすぎるとジャーファルがうるさいので、行く場所は今のところ一つしかない。
紫獅塔のとある一室の前で、マスルールとなぜか他二人の八人将の姿があった。ジャーファルとヤムライハだった。二人はまさしく徹夜明けと呼ぶべき疲労感を漂わせていて、少しだけばつが悪いような面持ちで三人のもとに歩み寄る。彼らはそれぞれこちらに気づいては簡単な挨拶を済ませてそれから深い溜息を吐いた。
「…なにか、あったのか?」
「昨日の晩、出歩いていましたのでそのまま外を見せました。振り出しに、戻ってしまったようですね」
生きていた世界の違いというのがどれほどの衝撃かというのは、分かるような分からないような、というより想像ができなかった。国が変わるのとはわけが違う。存在そのものの話になるのだから、これまた想像の範囲でしかないが相当な心的負荷がかかるのだろう。振り出しに戻ってしまったと彼は苦笑するが、それよりもさらに事態は悪いのではないだろうか。
ジャーファルは扉の向こうをちらりと見やってから、唇を歪ませるシンドバッドを見上げた。
「…起きては、いるようです」
憔悴しきったようなヤムライハの肩を叩き、ドアの前に歩みを進める。二、三度ノックはしてみたものの、部屋の中は相変わらずの無音で「入るぞ」と一言声をかけてからノブをひねった。
紫獅塔の一室ということもあって、それなりに広い室内で彼女はベッドの上で膝を抱えて腰を下ろしていた。窓の向こうを見つめるばかりでこちらに背を向け、全く興味を示さなかった。もしかしたら部屋に入ってきたことさえ気づいていないのかもしれない。
シンドバッドはわざとらしく足音を立てながら、ベッドの近くまで寄る。人と接する時の距離感は、これだけ生きていればなんとなく掴めるようにはなっていた。だからこそ、彼女とのこの距離は、おそらくナマエ自身の張る防衛線を越してはいないはずだ。最後に部屋に入ってきたヤムライハが、ぱたんと静かに扉を閉めたところでナマエはようやく振り向いた。昨日のあの動揺した表情からは考えられないほどの無表情を浮かべながら、彼女はベッドから降りた。そうして、まるで機械のような動きで床に片膝をついて頭を垂れる。不自然さもなければさもそれが当然だというようなそれに、一瞬生唾を呑みこんだ。
「昨日は、申し訳ありませんでした。少し混乱していたものですから」
突き放すように声は固い。彼女のあの柔らかな声は、敵意を持てばここまで強張るものなのかと初めて知った。
「いや、いきなりすまないな。気分はどうだ、落ち着いたか?」
「はい、有り難うございます」
いたって事務的な返答である。先程ジャーファルからここが違う世界なのだということは告げたということは聞いたので、幾分会話はしやすかった。なにから初めに伝えればいいだろうかと逡巡していれば、先に彼女が口を開いた。
「…何故、私をご存じなのかお聞きしてもよろしいでしょうか」
出かけた声を呑んだ。床ばかりを見つめるナマエは顔を上げることはしない。かつんと一歩近づけば、床を突いていた拳が一瞬震えた。
「顔を上げてくれないか、ナマエ」
今の彼女からしてみれば見ず知らずの人間に、名を呼ばれるというのは気持ちのいいものではないのだろう。それをわかっているうえで呼んでいるのだから、つくづく狡い人間になったものだと頭の隅で誰かが笑った。
彼女は間をあけてからゆっくりと顔を上げる。深い海の底に似た瞳が、無感情をぶらさげて見据えていた。
「俺はシンドバッド。後ろの赤い髪の男がマスルール、隣からジャーファル、ヤムライハという。君の名を、教えてくれるかな」
「……帝国騎士団…」
不自然に言葉が切れる。彼女は何かをいいかけて言葉を飲み、短く息を吸った。
「帝国騎士団キャナリ小隊隊員、ナマエと申します」
やはり、彼女は頭の回転が速い。こちらが言わんとしていることを、理解していた。にこりと人好きのする笑みを浮かべて同じ目線になるようにしゃがみこむ。そこで初めて、困惑といったふうな感情を浮かべた。
「俺は今の君は知らないが、未来のナマエは知っている。俺だけじゃない、ここにいる彼らみなそうだ」
「……み、らいの…私」
目を伏せた彼女はごくりと生唾を飲み込んで、瞬きを一つした。
「……私は、貴方方を知っているようでした。ならばそれが、答えなのでしょう」
紛れもない彼女自身の話をしているのにどこまでも他人事のように話している。それは現実味がない世界のせいなのか、それとも彼女自身が現状に興味がないのか、残念ながら彼に知る術はなかった。
――騎士団、か。それならば彼女が剣の腕がたつ理由も分かる。ヤムライハが、ナマエは武官に好んでなりたいといった様子だったと伝えた意味が漸く分かった。それと同時に、出会った当初に吐いた嘘も。
それにしても、ひどく落ち着いたものである。未来の彼女を知っていると飛躍しすぎている台詞でさえ疑問を投げかけることもなく、ならばそれが答えなのだと言い切ってしまった。恐ろしいとさえ、思えた。
「……本当に、なにも覚えていないのね」
ふいに、言葉が落ちた。朝の音に紛れてしまえるほどに小さな声はとても弱弱しく、シンドバッドはゆっくりと振り向いた。両手を胸の前で握りしめるヤムライハは眉間に皺を寄せながら八の字に眉尻を下げている。彼女とは距離があるのにもかかわらず、その瞳に薄らと水気を帯びた透明な膜が張ってあるのがわかった。わかってしまったというべきが適切なのかもしれない。
「……覚えていないというのが正しいのかどうか、私にはわかりません」
冷ややかな温度を伴って弾けた声は、やはり聞き慣れた声とは同じようで遠い。その言葉の後に、ヤムライハが口を開くことはなかった。
ナマエはそれきり黙り込んでしまった。頭に思い浮かぶのは最早遠い昔の事のように思える彼女の笑い顔ではあったけれど、彼にとっても、またはヤムライハにとっても、彼女という存在はいつだって遠くのもののようであったのかもしれない。この世界とは違う場所から落ちたのだと言った彼女の涙が、唯一の彼女自身であったような気がした。
まるで分厚い壁に阻まれているかのような距離に、シンドバッドは一度目を閉じた。あぶくのようにふわふわと浮かんでは弾けて消える言葉たちが、はたしてこの壁を越えてゆけるのだろうか。
出かけた声、あるいは何の言葉にもなりはしない音を飲む。
深く俯いてしまった彼女のつむじをただぼうっと眺めていれば、ふいに赤い輝きに目が眩んだ。どれほど太陽が傾いたというのか、窓から鋭角で差し込む陽光が彼とナマエとを照らし出す。その光をまるで嫌うかのように跳ね返していたのは、見慣れない彼女の髪留めだった。光に当たれば青にも見えるような濃い髪をひとつに束ねるその銀の細やかな装飾の施された髪留めは、埋め込まれた赤い石だけが異様に浮き出ているように思えた。
――どくりと、ほんの一瞬心臓が軋みを上げた。確信はない。何故そう思うのかもわからない。ただなんとなく、今朝感じた違和感の正体がわかったような気がした。
彼女がこのような姿で記憶もないということで落ち着くまでは紫獅塔に部屋を置くこととなり、彼らは朝議の時間が迫っていたのでひとまず部屋を後にした。あの小さな体に不釣り合いなほど広い部屋に残された彼女が一人、何を考え過ごしているかなんて、彼女と入れ替わりでもしない限りわかるはずもないのだろう。
「ほんとうに、飽きさせないな」
くくと苦笑いにも似た笑いをもらせば、いつもより気を張り詰めている政務官に諌めるように睨まれた。
吐き出した息に色があるとするならば、きっと。深海のように深く暗い青い色をしているのだろう。ふと、そんなふうに思った。
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