※ シンさん視点はかけないと気づき没
憔悴しきったようなヤムライハの肩を叩き、ドアの前に歩みを進める。二、三度ノックはしてみたものの、部屋の中は相変わらずの無音で「入るぞ」と一言声をかけてからノブをひねった。
紫獅塔の一室ということもあって、それなりに広い室内で彼女はベッドの上で膝を抱えて腰を下ろしていた。窓の向こうを見つめるばかりでこちらに背を向け、全く興味を示さなかった。もしかしたら部屋に入ってきたことさえ気づいていないのかもしれない。
シンドバッドはわざとらしく足音を立てながら、ベッドの近くまで寄る。人と接する時の距離感は、これだけ生きていればなんとなく掴めるようにはなっていた。だからこそ、彼女とのこの距離は、おそらくナマエ自身の張る防衛線を越してはいないはずだ。最後に部屋に入ってきたヤムライハがぱたんと静かにドアを閉めた音だけが、異様に響いた。
「…気分はどうだ、ナマエ?」
ぴくりと彼女の細い肩が跳ねる。相変わらず背を向けたまま振り向こうともしない彼女は、それからゆっくりと上体を屈めてほんの小さな声で「やめて」と呟いた。その身丈に合っていない官服は尚更彼女を小さく映し、シンドバッドは伸ばしかけた手を握りしめて踏みとどまる。ぽつりと名前を零した、ナマエの声よりも近くにいるはずのヤムライハの声のほうがとても小さかった。
「…やめて、ください」
二回目の声は先程よりはっきりと、それでいて明らかに震えていた。
「……わたしじゃ、ない」
私じゃない。
ゆるりと振り向いた彼女の両目は赤らんでいて、目を開けていることさえ億劫そうに見える。ベッドから降りて壁際へと身を寄せたナマエはただ頭を小さく振りながら、キッとまるで仇でも睨みつけるような眼差しを向けた。
「その名前はわたしじゃない、わたしは知らない…! あなたが誰なのかも、ここがどこなのかも――!」
何度も唇を噛んでいたのだろう、赤紫の斑点の散る唇は青く、今にも倒れてしまいそうなほどに顔面は青白い。張り裂けそうな声を吐き出すたびに揺れる深紅のピアスが、柔らかな日差しに反射していた。
シンドバッドは飲み込みかけた息を細く吐き、薄く開いていた口を閉じた。
最早悲鳴に近いその声に、遅鈍な頭を殴りつけられたかのような苦さを感じた。深海よりも暗い青の瞳がぐらぐらと揺れている。彼女の睨みつける瞳が心臓の奥を小さく引っ掻いた。
「…いきなりすまなかった。俺はシンドバッド。こっちの赤いのがマスルール、ジャーファルにヤムライハだ。
――君の名前を、教えてくれるかい?」
記憶の中の彼女よりも幼い瞳が揺れ、よりきつく結ばれた唇に、彼は浅紫の髪を掻きまわした。
事の顛末は当事者であるヤムライハから聞いていた。だからこそ目の前の彼女は紛れもないナマエなのだと疑いようもなかったために、言葉と態度の噛みあわない事態にただ違和感を覚えざるを得なかった。彼女からしてみればシンドバッドたちは見ず知らずの人間なのだろうが、彼らはナマエを知っているのだ。
――ああでも本当に、痛々しい。剥き出しの刀身をしまう術を忘れて、ただ徒に己自身を傷つけていることに気づくことはない。その声が、痛々しい。
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