目を覚ますと、頬が濡れている。夢の中で見て居た景色は、遠いあの日々を追走していた。そういう夜が、海に落ちてから、ずっと続いている。
薄暗い夜の銀蠍塔が纏う空気は冷えている。昼間の茹だる暑さが嘘のように、ここは昼と夜の気温差が少しばかりあった。熱を帯びた項を攫っていく柔らかな風に目を閉じて、柱にもたれかかった。頬に張り付いた髪が煩わしいが、腕を上げる気力はなかった。
「ナマエさん、もう終わりにしますか」
首をごきりと鳴らして近づいてきた彼は、夜空でも映える赤い髪をかきあげた。額には汗がまとわりついているが、彼にとって運動すること自体が熱いからであって、決してナマエとの組手のせいではないのだろう。常時涼やかなその相貌を崩してやりたいと意気込むが、残念ながらいまだ叶わずにいる。
「マスルールさんが大丈夫であれば、もう一回、お願いしたいです」
「俺は別に」
「では、少しだけ休憩を頂けませんか? すみません、体力がなくて……」
零れた苦笑いに、彼は頷いてナマエの隣に腰を下ろした。
――武官の個人訓練に戻ることができたのが一週間前。それまで部屋に居てろくに動けていなかったもので、日々の仕事をこなすだけで情けないことに疲れ切っていた。最近ようやく、マスルールと仕事終わりの組手を再開することができるようになった。それでも、床に臥せっていた代償は大きく、身体は鉛のように重い。その上、息もすぐ上がってしまう。
――これでは到底、敵わない。
だらりと腿の上に置いた、左腕の傷を撫でた。
「……ナマエさんは、ここを出て行くんスか」
「え、どうして?」
「……なんとなく」
彼の感情に乏しい表情にも慣れたが、まだ真意を推し量るには時間が足りない。それでも、真直ぐに見下ろしてくる双眸は確信めいていた。彼らの種族はとても感覚的に鋭いところがあるので、もしかしたらそういう何かが、溢れてしまっているのだろうか。否定する言葉も、肯定する意味もどこにもないのだけれど。
ナマエはマスルールの言葉に目を伏せて、ペンダントを握った。
「……出て行きたい、わけではないんです」
毎夜、夢を見る。
同じ人魔戦争に潜むものに憑かれていた、イエガーを倒している夢。そこから先には進めずに、ただ繰り返している。延々と、何度も巻き戻されるその瞬間を見るたびに、他に手立てがなかったのだろうかと思い悩む日々。それを、エアルを見たあの日から続けている。それでもやはり、ああして彼を終わらせてしまう手立てしか、残されていないのだ。――それが、あの人魔戦争を生き残ってしまったナマエたちの、業というべきものなのだろうか。心臓に埋め込まれたあの明滅が弱まっていく光景。そうさせたアレクセイが、その先に待っている。
「ナマエさん?」
「……すみません、少し、考え事を。マスルールさん、よろしくお願いします」
今日も、そんな夢を見るのだろう。
* * *
「アルさん、リーエン副隊長! 体はもう大丈夫ですか?」
「ナマエさん、俺たちはもうすっかり! あの時は本当に、助かりました。ありがとう」
「私が不甲斐ないばかりに、すまなかった」
それから数日後。本隊とは別で各々で鍛錬していたアルサス、リーエンと今日から十三隊として合流することとなっていた。そのため市街地の巡回を含め、隊務及び総合軍事訓練の全てに参加することができるようになる。これからようやく、通常通り機能することとなるのだ。
もうすっかり治ったと笑うアルサスは、こめかみにできた小さな傷を引きつらせながら、ナマエの背中をぱしぱしと叩いた。正面にいたリーエン副隊長は、元々口数が多い人ではなかったが、少しばかり首を垂れてそういった。
「そんな、止めて下さい。たまたま、ジャーファル様がいらっしゃたからこそです」
「それでもですよ。それに、折角のナマエさんの謝肉祭の衣装を見ることもできず…」
「……アルさん、気付いてたんですか」
槍を肩口に宛てながら、しおしおと泣き真似をしてみせた彼に、見なくて正解ですよと、こぼれそうになった涙を押し込んで、笑った。
彼らが生きていてくれたことで、どれほど救われたかなんて、伝わることはないのだろう。
淡く微笑んだリーエンの口許に、また、こぼれそうになった。
「皆すまない、遅くなった。それでは、これより総合訓練を行う」
先頭に立ったドラコーン将軍の声が、赤蟹塔に響き渡る。その声一つで僅かな乱れもなく隊列を整える、まではいつもの流れだったのだが、今日は珍しくマスルールの姿があり、一瞬だけ空気が緩んだ。そんな空気を察したのかドラコーン将軍は咳払いを一つしてから、短い挨拶の中で十三隊の復帰、昨今の情勢について触れていた。
彼の訓練前の挨拶は端的としていて、今日も変わらず言葉少ないながらも士気を十分に上げた後、訓練内容の話に移った。
「まず、二人組を作り、その後多対少数を想定して戦闘訓練を行う」
復帰したばかりではあるが、先の件でも重傷を負いながら奮闘した十三隊隊員を中央に据え、そこから二十人編成の隊を集めた。収集をかけながら訓練内容の詳細が話され、曰く二人の内どちらかが捕らえられた時点で終了となるようだ。
十三隊は六人編成であり三組に分かれているため、順番は序列に従いナマエとアルサスのペアが一番手を担うこととなった。
たった二人を二十人の屈強な男たちが囲んでいる光景は、あの船上を思い起こさせる。あの時は一人きりだった。今は、隣にアルサスがいると思えば、二十人など難しくはない。
「武器は、短剣一本のみとする。敵側の武器を奪っても構わん」
「――アルさんが槍以外を使うところは初めてですね」
「そういうナマエさんこそ、短剣一本ということは、基本的には体術を駆使しろということだけど、問題は?」
「ありません」
お互いに背を預けながら、渡された短剣を逆手に持ち直す。
マスルールにも劣らない体格ばかりの海兵部隊に短剣一本ともなれば、彼との鍛錬の成果を発揮し、修正していくことができる。
呼吸を整え、相手を見渡していく。
「始め!」
ドラコーン将軍の声により、全員が一斉に動いた。
大概こういう場合は魔導士か、ともなれば逃げ腰を相手に狙いを定める。魔導士は言わずもがなであるが、国の武官である以上戦闘においては徒に人命を傷つけるような真似は良しとされない。そうなれば必然的に相手の戦意をいかに喪失させるかにかかってくるが、二人しか残されていない場合、一人でも欠ければ窮地を抜け出すには困難を極める。敵側からすれば、どちらがより先に戦意を喪失させるに足るか――つまり、大多数の目が、ナマエに向けられるという状況が出来上がるわけだ。
「ナマエさん!!」
「お願いします!」
まずは、この舞台の特徴上、中央に集まる密度を分散させる。初手を逃げとする選択を、アルサスは十分に理解している。
ナマエもアルサスも、比較的小柄で痩身に分類される体格だ。海兵を踏み台に頭上を跳ね上がり、中央から外周に距離を置いた。
ここからは極力一対一に持ち込み、一人ずつ戦闘不能に追い詰める。
短剣は訓練用となっているため、差し込めば剣先は柄に収納されるギミックになっていた。行動不能部位に刺すことができれば勝ちだ。
向かいくる巨体から放たれる拳を半身翻してよけ、腹部を蹴り上げる。よろけた左足の裏腿に短剣を刺せば、カシャンとギミックが作動した音がした。右側から長剣、左後方から槍の男に阻まれる。槍の間合いは広い分、懐に入られると隙ができやすい。長剣は振り上げた瞬間、胴が開く。
武器がどれでけ鋭利でも、必ず隙は生まれてしまう。体格差が著明であるならば、その隙は突いていくことが大前提だ。
マスルールの険しい目から逃れるように、群れを蹴散らしながらアルサスとの距離を詰めていった。
攻撃を受ければ容易に吹き飛ばされる。疲労が足を止めたがる。それでも何度も立ち上がり、剣先を流し、柄を鳩尾に叩き込んだ。
振り上げた足の重さが増していく。側頭部に叩き込んだ足を止められるが、マスルールならば、ここで迷わず足を掴んで放り投げられていただろう。素早く足を引き戻し、後方からの一閃を屈みよけながら二人の足元を掬った。すかさずに大腿部を刺して倒れ込んだ男を飛び越える。
「アルさん、残り五です!」
「了解!」
ようやく見つけたアルサスの空いた背中に立ち、呼吸を整える。刺された隊員は退場しているので、開けた舞台に五人が散らばっている状況が出来上がった。汗がこめかみを伝い落ちる。アルサスの肩も、僅かに上下していた。
「因縁の相手だ、任せるよ」
「はい!」
とんと離れた背中に安心していた。目の前には、いつぞやに安い挑発を受けた海兵一の大男。今回の目的は彼を負かすことではなく、行動に制限をかけることだ。
短剣を持つ手が汗ばむ。ドラコーン将軍を前に、彼も笑う素振りは流石に見せないようだ。二戦二敗中の相手だが、最後の一敗は手応えがあった。
ナマエの踏み込んだ足に、素直に反応した相手の槍。剣先を弾き軌道を変え、右手に持っていた短剣を空いた左手に持ち替えようと宙に放った。
(――!)
柄が左手の指先を掠め、地面に落ちる。懐に入り込んだまま、一瞬の制止。くるりと彼の手元で槍が回転したのを視界の端で捉えた。
「っぐ、!!」
咄嗟に後方にステップを切って繰り出された石突の打突の勢いを相殺したものの、それでも腹部にめり込んだ威力は大きかった。ほぼ無防備で直撃だ。このまま地面に放られれば、残る海兵の攻撃は避けがたい。捕らえられればこの訓練は終了する。地面に左手をついて体勢をよじり着地した。
「そこまで!!」
ドラコーン将軍の声が、立ち上がろうとした足を止めた。カランと何かが落ちる音がして、そちらへと顔を向ければ、ナマエが相対していた大男が、アルサスの背後から槍を使って完全に動きを制されていた。
「仲間の位置を、お互いに把握しとかねえとな。どちらかでも捕らえられれば終わりだっただろう」
ナマエが吹き飛ばされた時点で、アルサスの背中はがら空きだった。
降参だと、両手を上げたアルサスの顔は苦々しい。あと、たったの三人だった。
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