総合訓練を終えた後、巡回警備と海洋警備の時間制による交替で、ナマエを含む十三隊は夕市警備へと向かった。
アルサスは優しい人だ。また頑張らないといけないねと笑って済ませてくれたが、足を引っ張ったのはナマエのミスだった。
巡回中は国民の為にも朗らかな笑顔をしていなければならない。巡回を終えて合流したリーエンに、背中を叩かれたので恐らく笑えていなかったのだろう。

頬を抓りながら、どうしても下がりがちな口角を引きあがらせる。ロゼに預けていたジュリィを探している間に、気持ちを切り替えなければ。また、マスルールに厳しく稽古をつけてもらわないといけない。
――少しだけ、焦る。夢を、思い出す。
無意識にペンダントに触れようとして、はっとした。


(――ない)


胸元には皮膚と鎖骨の膨らみしか触ることができず、そこにあの冷たい感覚はどこにもない。気づかなかった。最後に見たのはいつだっただろう。見ないように、それでも、首から外すこともできずにいたペンダント。父からの、最後のプレゼント――。


「ナマエちゃん!」
「こんなところで、どうしたのです」
「っ、ジュリィ、ジャーファルさん」


ぱたぱたと足元に駆け寄ってきたジュリィは、絵本を片手にとびきりの笑い顔を浮かべて見上げている。武官の仕事はついてこられないので、ロゼの侍女としての仕事を手伝う傍ら読み書きを教わっているそうだ。
胸元に置いていた手で、彼女の頭を撫でる。今日のあったことを溜めきれずにぽんぽんと飛び出してくる言葉を受け取りながら、彼女を抱き上げようと手を伸ばして、止めた。しゃがみ込んで目線を合わせて話をしていれば、ジュリィの言葉が漸く止まったところで、ジャーファルが首元を指差す。


「――ペンダント、失くしたんですか?」
「ほんと? 早くさがしにいかなきゃ、ナマエちゃん」
「…それが、どこで落としたか見当もつかなくて」


首から提げていた重みが当たり前で、気付けば喪失に軽くなるそれを、あの人は笑うかもしれない。
きゅうと襟元を掴んだ手を、ジュリィが撫でた。


「――ナマエさん」


中庭の方から、どこからかマスルールが飛び降りてきた。突然現れた巨体に一瞬ジュリィも引きついたが、この一週間、夜に出かける際に顔を見ていたせいか大分慣れたようだった。ジャーファルに挨拶をしながら歩み寄ってくる姿に立ち上がり、首を傾げる。いつもの時間にはまだ早い。


「マスルールさん、どうかされましたか?」
「昨日の夜、落としてったんで」
「――夜?」
「! ありがとうございます! 今、探そうとしてて…!」


武骨な手のひらに転がるペンダントは、彼の手の中ではより小さく見えた。その手の中から拾い上げれば、カランと中身が音を鳴らす。


「――昨日の夜、何かあったのですか?」
「っえ、えーっと、その……」


ジャーファルが袖口を口元に宛がいながら問いかけてきた声に、言葉が詰まった。低い声だった。まるで最初のあの質素な部屋での問答を彷彿とさせるような声。
彼のその声の理由を逡巡してみたが、思い浮かばなかった。
強張った喉から音が出るより先に、ジュリィの明朗な声が弾けた。


「ナマエちゃん最近、マスルールさんと仲良しなんだよね!」


マスルールと夜に組手をしていることを彼女は知らない。なので、何も彼女の言動が間違ってはいない。そうなのだが、そうなんですかと発されたジャーファルの声の鋭さに身震いしそうだ。何に対して彼がそんな刺すような空気感を作っているかを図りかねて、マスルールの顔をちらと見れば、何の表情も浮かべていなかった。


「えぇと、その、マスルールさんに稽古に付き合ってもらっていて、ひっ!?」


がしりと、大きな手が不意に左手を掴んだのだ。突然のことに跳ね上がった心臓を押さえつけながら、言葉を、先に、としどろもどろに出た声を、マスルールは全く以て意に介さずに服をめくって左腕を晒した。
――まだ、鮮やかな記憶だ。ランプの仄明るい廊下の雰囲気が、揺れる船内の明かりに似ていた。


「ずっと違和感があって、今日の軍事訓練の時に気が付いたんですけど」
「――!!」
「左腕、使えないんですか」


うっすらと残る傷跡。掴まれる大きな手。背筋が粟立つ感覚。落ちる大きな影。生温い体温。
ひゅう、と吸い込んだ息の細さを、自覚する。海水のようにべたついた男の声が、耳元で聞こえたような気がした。


「――マスルール、そうそう無遠慮に、触るものではないですよ」


透明な音だ。彼の声はいつだって透き通っていて、どんな雑音も凪いでくれる。
マスルールの手が離れ、左腕が重力に従って落ちた。


「……スミマセン」


ただ、と継いだ言葉は、いつもより険しかったように思う。


「その身体で、左腕も使えなくなったら、今の仕事キツいと思います」
「――あの、時は、」
「ナマエちゃんを、いじめないで!」


足元で、彼女がマスルールとの間で両手を広げてキッと睨みあげた。彼の語感が、ジュリィには恐らく責めているように感じたのだろう。それぐらいには、確かに、厳しい声音だった。


「そんなことないよジュリィ、マスルールさんは、私のことを考えて――」
「じゃあなんでナマエちゃん泣きそうなの?」


唇を噛んでしまった。彼の言葉はどこも間違ってなどいない。
今までずっと気付かないふりをしてきたことを、今日の訓練で思い知らされた。このままでは、隊の誰かを傷つけてしまうかもしれないということを。
私は、と反論が宙に浮く。左腕をゆっくりと持ち上げる。指先は、少しだけ震えていた。


「……指先が震えて、たまに力が入りにくい時があるんです。自分が思っていた感覚とずれていて、うまくまだ、動かせないんです」


ジュリィの前で、言うべきことではなかった。それでも、今伝えなければ、ここで武官として働く道は途絶えてしまうかもしれない。
彼女の顔を見ることが、できない。自分の弱さの所為だというのに。


「…黙っていて、すみませんでした」


ジュリィの小さな手が、裾を握っていた。
武官は、誰かを守るためにいる。だからこそ、マスルールのその言葉は、酷く重たい。


「――…隻腕の武人はいくらでもいます。貴女がそれでもその道を進みたいのであれば、努力を積み重ねていくほかないでしょう」


頷く。声は、上げられなかった。


「……今日も、いつもんとこにいます。判断するのは、俺じゃないんで」


マスルールの去っていく背中に、最後まで、顔を上げることができなかった。


「……少し、外の空気でも吸いに行きましょうか」


戸惑うジュリィを抱き上げて、ジャーファルはゆっくりと中庭の方へと進んでいった。
情けない。それでも、喉の奥から込み上げてくるものを飲み込んで、飲み込んで。最後に抓った頬は、痛かった。


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