夕飯時ですから、ロゼにお願いしましょうか、と抱えていたジュリィをそのまま緑射塔の方へと連れ立ったジャーファルの背中を眺めながら、中庭で一人、ベンチに腰掛けていた。気丈に過ごさなければいけないという思いが、ジュリィを前にすると出てしまう。少しの弱音も、彼女の前では吐いてはいけない。船での一件以降、願望を口にすることがなくなった彼女が、これ以上何も背負わなくていいように。我儘を言ってしまったからだと、自分を責めてほしくはない。現に、そんなふうには微塵も誰も思ってなどいないのだ。
ペンダントを、手の中で転がす。カランと中身が動く音がする。中身を、確認したことはなかった。父から授かった時からこのペンダントの蓋は固く閉じられていて、開くことが怖かったのだ。
――無茶はするなよと、人魔戦争が起こるより前に強ばった声で告げられた言葉。誰よりも強くなれとかけられた期待。
反して、弱い自分。
軍事訓練を重ねていけば、よりこの左腕の震えは出てくるのだろう。今までは左腕を庇うことで負荷を減らしていたが、そういうわけにはいかない。使えば使うほど、後半に動かなくなってくる。
父の期待に応えなければと、心のどこかでまだ急いている自分が居る。騎士団も抜け、世界を離れた今でさえ。


「――ナマエさん!! こんなとこにいたのか」
「あ、アルさん…!?」


呼び声に弾かれるように顔を上げれば、ラフな格好をしたアルサスが走り寄ってきた。ターバンの巻かれていない明るい短髪をかき揚げて、目の前まできたかと思えば、間髪入れずに頭を下げた。


「ぇえ、アルさん、どうし――」
「ごめんナマエさん、今日の訓練中、俺は私情を挟んだ」


すっと持ち上がった顔に張り付いた表情は、彼らしくもなく硬いものだった。


「ナマエさんを見くびってるとかそういうことではなくて、単純に体格を考えれば、あの時は俺が対応するべきだったのに、ナマエさんが再戦したがってたなとか悔しがってたなとか、そういうことを考えて、ナマエさんは一人でなんでもできるタイプだったから、訓練だからって気を抜いていた」
「っいえ、そうじゃないんです…。……実は、船での一件から、左腕がうまく動かせないようになってしまって、あの時も、武器を、取りこぼしたんです」


実践でそれは命取りだ。また、危険にさらしてしまうくらいなら、マスルールの言うとおり、身を引いたほうがいい。
アルサスの目を見ることもできずに、彼の空いた首元を視界に映す。
彼がどんな言葉を浴びせようとも、それは等しく受け取るべきだ。同じ隊員であるならば、いかなる不都合が起こるともしれないのだ。
きゅうと、腿の上で作った拳を、彼は笑った。


「そんなの、俺たちがいるんだから、いいんだよ。気にしなくて。だから、そうだな……今回は俺のミスもある」
「っで、も」
「――治ってくれることに越したことはないけど、俺とナマエさんは基本的にペアだろう? だったら俺がその分考慮すればいいと思う。それだけだよ」


右目の下の泣きぼくろを掻きながら、片方だけできる笑窪。アルサスは、右腕に力こぶを作ってみせて、これでもそこそこに強いのだとおどけてみせた。


「だから、明日も頑張ろう」
「…っすみません、ありがとう、ございます…!」


それだけをいいに来たのだと、彼はまた顔をほころばせながら、手を振って踵を返した。
垣根を越えて姿が見えなくなったあたりで、アルサスの驚いたような声が聞こえたすぐ後、ジャーファルが顔を出した。鉢合わせたのだろうなと想像がついたが、ということは、彼はずっと、そこで頃合いを見計らっていたのだろうか。瞬きを数度ゆっくりと繰り返した彼は、よかったですねと笑ってベンチに腰掛けた。


「……聞かれて、いたのですね」
「聞こえていただけですよ」


あくまでも偶然居合わせたのだとというふうな言い方をしたジャーファルに、思わず一笑した。


「……少しずつ、治していこうと思います。動かないわけではないので、時間はかかるかもしれませんが、治して、そうして、武官を続けていきたいと思います」


握りこんだ左腕の感覚は鈍い。
父の期待、アルサスの期待、自分自身の期待。そしてなにより、居場所があるなら、守ることがまだできるなら、なによりもこの仕事を続けていきたい。本当は、そうしたい。
ふわりと、柔らかな風が吹いた。果樹園から運ばれる甘い香りに顔を上げれば、隣に座るジャーファルの視線がこちらを射抜いていた。
月の光の溢れる銀糸の髪。夜に浮かぶ白い肌。それに乗る、細められる翠蒼の瞳が捉えて離さない。


「……貴女が、もう戦わずに済むのなら、そのほうがいい」


透る声が、一瞬何を言っているのかわからなかった。


「あの時、このままもう目を覚まさないのではないかと思いました。一人で戦って、傷ついて、見知らぬ世界で命を落としてしまうくらいなら、」


すっと双眸が細められた。なんてねとくすくすと笑った唇が、袖口に隠される。
言葉の理解が追いつかないと、彼の容姿ばかりに目を奪われるのだということを初めて知った。


「どういう、意味、ですか?」
「――ナマエ」


いつからだっただろうか、彼が名を呼ぶようになったのは。彼に名を呼ばれるたびに、そこに確かに存在していることを許されたような気がした。透き通っていく声にひどく安堵した。
少しばかり目を伏せたせいで、長い睫毛のひとつひとつに光が乗る。


「貴女のことが、心配、なんですよ」


ジャーファルの言葉が、すとんと胸の奥に落ちていく感覚がした。



     *     *     *



銀蠍塔の最上階で、彼は柱に寄りかかって座っていた。オラミーやパパゴラスが周りを取り囲むようにいることも気にも留めていないようで、彼はこちらに気づくと、のっそりと立ち上がる。


「マスルールさん」


こつんと、石造りの舞台は足音がよく響いた。彼の、マスルールの鋭い目つきに試されているような気がして、一瞬たりとも、目をそらせない。
なすべきことが、まだある。そのために、まだ、この道で立ち続けていないといけない。


「――よろしくお願いします」


こくりと頷いたマスルールが、ゆったりと構えた。


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