それから、基本的に夜はマスルールとの組手を重ね、昼休憩の合間はシャルルカンとの剣術稽古をしていた。一日の終わりになると、ジュリィさえ持ち上げることができなくなるほどには、指先の震えも筋力の低下も現れてくる。けれど、稽古を重ねているうちに動きやすくなるというよりは、動かなくなるタイミングを掴めるようになってきた。ほぼ無意識の中で動かしていた体の感覚を意識的に止める動きをするので、どうしても一瞬身体の処理に追いつかず止まってしまうことが難点ではあるが、剣の持ち替えや組手の動きなどに致命的なミスが減っていることは純粋に嬉しくもあった。元々左腕を怪我したことから右利きに変えていた面もあるので、両利きで融通が利いたこともあったようだ。
ただ、相手に合わせて間合いをとり損ねた瞬間にそれが起こると、


「っぐ…!」


弾き飛ばされて怪我が増えていく。
今日も今日とて、マスルールの俊敏な動きに間に合わず、神経回路が停滞したその隙に投げ飛ばされてしまうものだから、軍事訓練でアルサスと顔を見合わせるたびに傷の数を数えられる面白くない状況が出来上がっていた。


「…その癖、止めたほうがいいっすよ」


彼に投げ飛ばされるたびにそう言われるのだが、現状左腕がそうなってしまうと対応策が他にないのだ。よろよろと起き上がろうとすれば、マスルールは反対に座り込んだ。
休憩だといいたいのだろう。夕食を摂ってからどれほど経ったか分からないが、ずっと動き続けていた。どさりと石造りに手足を放り投げれば、火照った体にひんやりとした温度が心地よかった。


「それでも、前より動きが良くなってると思います」
「本当? 自分だと、どうしても投げ飛ばされる回数ばかり数えてしまうから…」
「それは、ナマエさんが軽いから、」


マスルールにしてみれば、ナマエの体など幹にすらなれない枝一本のようなものだろう。苦笑いがこぼれる。体重、増やすかあとごちた声に、聞き慣れた笑い声を拾った。


「やめとけ、どっちにしたってマスルールからしたら変わりゃしねーよ」
「シャル。どうしたの、こんな時間に」


階段の暗がりからジャラジャラと鎖が揺れる音を引き連れて現れたシャルルカンは、軽快に右手を上げた。いつもであればこの時間は酒を飲みに行っているのだろうに、今日はまだ飲んでいないようだ。――と、思っていたのだが。


「ナマエ、お前明日休みらしいじゃねーか」
「そ、そうだけど…?」


むくりと起き上がりながら、汗で張り付いた砂利を払い落としていれば、にんまりと楽しげなシャルルカンの顔が近づいてくる。
明らかに、なにか悪巧みを考えていそうな顔だった。


「よし、飲みに行くぞ! マスルールも付き合え!」
「えっ…えぇえそんな、こんな汗だくで、それにまだマスルールさんとの稽古も終わってないから…!」
「んなの毎日やってんだ、細けェことは気にすんな! なあ!」
「…俺はいいっス」
「なんでだよ!!」


マスルールが駄々をこね始めたシャルルカンを遠巻きに眺めて、完全に無視を決め込んでいる。シャルルカンはよく国営商館の方に飲みに行くというので、毎度こんなやり取りをしているのかもしれない。じわりじわりと距離を詰めてくるシャルルカンから逃れるように、マスルールの背後に隠れた。


「私は! まだマスルールさんといたい!」
「おいナマエ、こんな仏頂面といたところでなんも面白くもねえだろお!」
「ナマエさん」
「なん、っ!? !?」


浮遊する足。遠くなる地面。広い背中が眼前に広がっている。マスルールの屈強な腕が腹をしっかりと抱えていて、身じろぎひとつ許されなかった。


「こういう時は逃げます」
「あ、おい待てこらマスルール!!」
「待って、待って逃げるってどこ――っにぃいいい!!」


銀蠍塔を勢いよく飛び出したマスルール越しに見た空は広く、そして、一瞬のうちに落下した。
壁を蹴りながら経由しているような振動が伝わるが、もう目も開けていられない風圧と恐怖に自身の身体感覚の全てが閉じる。
どすっと重たい音をさせてどうやら地面に着いたようで、マスルールの肩からずり落ちるように地面に転がり落ちた。三半規管がぐわんぐわんに揺れている。どこが下なのか上なのか分からない感覚に、地面から頭を持ち上げることもかなわなかった。


「――何をしているんです、二人共」


違う意味で、顔が上げられない。この声は確実にジャーファルのもので、先輩が、となんともない声音で状況を説明している。ファナリスの種族性がどういうものかは話に聞いていたが、銀蠍塔の最上階から飛び降りるてもあっけらかんとしているとは聞いていない。いや、時折どこから飛び降りてきたのかわからなかった時もあったが、精々、三階くらいなものだろうと踏んでいた。
予想を超えた動きをしすぎて、マスルールが説明を終えた頃にようやく、肘をついて上体を起こせるようになった。


「マスルールさん、もう、飛び降りるのは、やめてください…」
「大丈夫ですか、ナマエ」
「――っ、だ、大丈夫…じゃないです…」


少し上げた視界の先に、白羊塔の廊下を背景にジャーファルの足元が見えた。
大丈夫だと意気込みたいところだが、まだ足が震えている。あのねえマスルールと、いまだしゃがみこんだままのナマエの姿に諌めるような声をかけて、ジャーファルはさくりと一歩、芝生を踏んで近づいた。
肩がびくりと跳ねる。足を叱咤して立ち上がり、思わず一歩足を引いてしまった。


「すみません、不慣れな高さにびっくりして…! もう、大丈夫ですから、マスルールさん、稽古の続きを!」


マスルールの背を押しながら、稽古を催促する。
ジャーファルに挨拶だけ最後にした後、マスルールの大きな一歩に合わせるように小走りをしてその場を後にした。



     *     *     *



という一件があって以来、暇さえあればシャルルカンに飲みに誘われるようになった。昼稽古の際は仕事中だからかそんな誘いはしてこないが、銀蠍塔の最上階には夜にちらほらと顔を出すようになっていた。マスルール曰く、放っておけばいいとのことで、最近は彼が来ても構わずに稽古を続けることにしている。
稽古終わりにシャルルカンが愚痴を零すと長引くせいで、ジュリィは夕食からナマエが帰ってくるまで白羊塔に出入りをするようになっていた。


「だからよぉ、なんでお前はそうやって――」
「シャル、そろそろ私、ジュリィ迎えに行きたい」
「お前も最近冷たくなってきたな…!」


官服の裾を引っ張るシャルルカンごと移動を始めれば、彼は泣く泣く一緒に階段を下り始めた。マスルールは大概階段などまどろっこしいものを使いたがらないそうだが、あの急降下にお供する勇気は微塵も残されていない。シャルルカンの剣術の話から昨日の女の子の話まで、話題がコロコロと変わりながら、たどり着いた白羊塔の前で漸く解放された。
いつものように白羊塔の前でシャルルカンと解散し、大講義室の奥の部屋にあるジャーファルの執務室を前に立ち止まる。乱れた髪を梳いてから、ノックをしようと手を持ち上げた時、中から笑い声が聞こえた。女性の声、だ。
手が、宙を浮いたまま固まった。


「――ナマエ、どうしたの?」
「っピ、ピスティ…! なんで、ピスティがここに?」


つんつんとシャルルカンのように官服の裾を摘んで笑うピスティが、いつの間にか隣に立っていた。彼女の手には二巻の巻物が抱えられていて、途中で会ったスパルトスに頼まれたのだという。
「中、入らないの?」と小首を傾げた彼女の耳にも、笑い声が聞こえたようだ。数度目を瞬かせたあと、彼女特有の、悪い顔を浮かべた。


「しつれーします!」
「ピスティ、ノック…!」


最低限の礼儀だろうに、ノックもせずに入った彼女は、楽しそうに笑いながら執務机に腰かけるジャーファルに巻物を渡しに行く。その隣には、文官なのだろう、官服を着た女性が立っていて、彼女の反対側のゆったりとした大きな椅子に、ジュリィは寄りかかって眠っていた。ピスティの声で目を覚ましたのか、寝ぼけ眼をこすりながら、彼女はタオルケットを引きずりながらナマエの足元に寄ってきた。


「ナマエちゃん…おかえり」
「お待たせ…すみません、ジャーファルさん、お仕事なのに」
「いえ、貴女も稽古で疲れているでしょう?」


居眠りをしていたせいで乱れた彼女の髪を整えながら、ジャーファルの机の上の物ばかり見ていた。


「あのージャーファルさん! 今日、ナマエ借りてもいいですか?」
「え」
「いいかなジュリィちゃん?」
「ううーん…今日だけならいいよっ」
「えっ」
「よしきたピスティ!」
「えっ!?」


左腕をピスティが、右腕を突然現れたシャルルカンが抱え込み、ばいばいと手を振るジュリィに見送られながら、唖然とするジャーファルと文官、なによりナマエの意見を置き去りにして執務室を後にした。


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