もし、向こうの世界に帰れたら。この世界で生きていた時間はなくなってしまうのだろうか。あの世界ではユーリに斬られ、死んでいる。けれど、夢で何度も何度も見るイエガー戦の後、ナマエを探す声に呼ばれて、アレクセイと戦う前に戻ったら、ユーリがナマエを斬る事実を変えることができる。そうしたら、あの世界で、死んだ事実はなかったことになるのではないだろうか――?
そうすれば、この世界には、もう二度と戻れない。
一度死んだ世界。もう一度生きろと言われた世界。生きていくために居場所を探し、価値を求め、人と繋がりを得た世界。
――今更になって、気づいた。この世界が大切になっていけばいくほどに、喪失による痛みは大きくなっていく。当たり前だ。けれど、理解していなかった。元に戻る方法を、半ば諦めていた。死んだ事実が、覆るはずがないと思っていた。
足から力が抜けていく。
ベッドの上で本を広げていたジュリィが、膝をついた音に気づいて駆け寄ってきた。調子が悪いのと小さな手が額に触れる。
彼女の小さな体躯を抱きしめた。
悩んでいても時間は等しく流れている。お腹が空いたと訴えたジュリィを連れて王宮の食堂に連れ立ち、彼女のよく食べる姿を眺めていた。
ざわつく声に、彼女の笑い顔に、混乱していた頭が落ち着いていくのを感じる。
やりたいことがある。為すべきことがある。分かっている。仮令、もう、戻れなくなったとしても――。
生きる世界はここではないのだと、心臓の裏から声がする。ずっと、思っていた言葉。ルフと呼ばれる、この世界にとってあるべきものが存在していない自分。それは、つまり世界から爪弾きにされていることと同じだ。世界のわずかな隙間で生きている。そんな違和感を抱えて、これからもずっと――。
夕食の終えたジュリィを部屋に送ってから、白羊塔を目指していた。
なんとなく想像はしていた。あの日から見る夢は、もしかしたら戻れるかも知れない道を指し示しているという可能性。アレクセイを、この手で止める選択。
――ユーリ達と旅をして、いつも、平坦なことなどなく、正面からぶつかり合っていく彼の旅路は、騎士団長をしていた父に常に反発していた。あの世界にいたときは、ただもう変わり果ててしまった父の姿に目を瞑る選択しかなかった。赦されざる行為をした彼の全てを償うには犠牲が多く、彼に向けられる憎しみは正当なものだった。だから、目を瞑り、戦い、それでも尚犠牲を積み上げたアレクセイを――身を呈してまで庇ってしまったのは、心のどこかで、アレクセイが父であったという記憶があったから。
今ならわかる。人魔戦争を契機に腐っていくしかなかった父の選択は間違っていて、多くの犠牲を払い、目をそらし続けてきた父の最後を、止めることができるのはナマエだけだ。聖核に潰される直前、彼は涙していた。犠牲の上に立つしかなかった父に寄り添うことをしてこなかった結果だ。後悔、だった。
執務室を前に立ちすくむ。
――ピスティに促されずとも、自覚してしまっていた。けれど、それはこの世界の人間ですらないナマエには、持つことを許されないものなのだ。だからこそ、これは、憧れのままでいい。
ノックをかけようとした扉が開かれる。昨日と同じ文官が、扉の奥にいた。
「すみません」
彼女は柔らかな黒髪をなびかせて、会釈をして傍を通り過ぎていく。整った横顔に、少しだけ見蕩れた。
「……どうしたんです、こんな時間に?」
ジュリィがいなければ彼の執務室を訪ねる理由もない。彼は羽ペンをスタンドに戻してから、小首を傾げた。
瞬きを一つ。浅い呼吸を一つ。少し笑って、ゆっくりと、彼の目を見る。
深い翠蒼の双眸は、ランプの明かりの下でも柔らかく見えた。
「少し、お時間を頂いても?」
「――ええ、大方今日の業務は終わりましたので、大丈夫ですよ」
後ろ手に扉を閉めれば、執務室が狭く感じた。
小脇に抱えた地図を机の上に広げ、一歩、足を引く。
「……元いた世界に、帰る手立てが見つかりました」
揺らがない。決めたのだ。この道を進んでいくと選んだのだ。
ジャーファルの僅かに見開かれた瞼が、伏せられていく。そばかすの散る顔が笑みを象った。
「――それは、よかった」
沈黙が降らないよう、彼の言葉の余韻に重ねて、息を吸う。
どこから話せばいいのか、何を話せばいいのかわからないままだった。
「…ずっと、夢を見ていたのです。それは、あの世界の仲間が私を探している声で、以前、海に落ちたときにも、そんな姿を、見て。私を引き上げてくださった時に、緑色に光る物質を見ませんでしたか?」
「見ましたよ。それは、なにか関係が?」
「あれは、私のいた世界ではエアルと呼ばれる世界を構成する物質で、あれと同じものを、船乗りたちが見たというのです。聞けば、二、三日前からシンドリアのこのあたりで、緑色に光る海として、噂になっているようでした」
地図上に予め印をつけておいた場所を指さす。ジャーファルは黙って聞いていた。
「恐らく、この緑に光る海……の先に、元いた世界に戻ることができる方法があるのではないかと、考えています」
「……貴方が初め現れた地点が丁度この印のところですね。そして、海に落ちた地点は大凡このあたりです。……関係性は、なさそうですね」
ザウデ不落宮から落ちた先と、今回現れた濃密度のエアルの海――と仮定する――の位置関係は全く異なっている。そして、帆船から落ちた箇所はその間にあり、直線上には乗っていない。ただの憶測の話でしかない。そもそも、別世界からきた時点で、どんな話にも根拠など有り得ない。彼は、椅子に深く腰掛けた。
「……そのあたりは、凶暴な南海生物も多くいます。飛び込むには、危険すぎる」
「……きっともうすぐこのエアルはなくなってしまうような、気がするんです」
呼ばれている気がする。きっと、ナマエにしか感じ得ないものだ。
「…わたしは、帰りたい、んです」
絡み合って視線は外れない。彼は少しも、目を逸らさなかった。
長い沈黙が落ちた。堪えきれずに視線を逸らしたのはナマエだった。ジャーファルは椅子から立ち上がり、地図の上に、手を置いた。
「……この距離なら、ヤムライハの魔法でも行けます」
「――最後まで皆さんの迷惑になるようなことは。幸いどの船もこの航路を通るというので、船でいこうと思っています」
一瞬開いた口を閉じて、ジャーファルは薄く微笑む。
「貴女がいなくなると、ジュリィやヤムライハたちが寂しがるでしょうね」
「――すみません、ジュリィのこと、」
「長い旅に出るとでも伝えておきましょう。ロゼにも、他の者にも慣れてきていますから」
きっと大丈夫だろうとは、彼も言わなかった。
これで、最後だ。シンドバッドや、ドラコーンに事情を伝えて、出来うる限りの挨拶をして、明日にでも、発たないと。そうしないと――。
息を飲む。言葉を飲み込む。
ペンダントを外し、ことりと地図の上に置いた。
「最後に一つ、お願いしてもいいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
「……ペンダントの蓋を、開けてはもらえませんか?」
シンドバッドの傷を癒してくれたもの。
ジャーファルは驚いた顔をしてから、袖口から票を取り出して、ペンダントの蓋に刃を当てた。できるだけ瑕がつかないようにと優しい手つきで開けられた蓋から、何かがいきおい彼の手のひらにこぼれ落ちた。
差し出された手には、大きめの指輪が一つ。そして蓋には、健やかであるようにと刻まれていた。
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