今までのお礼を伝えれば、彼は笑っていた。思っていたよりも随分とあっさりとした別れだった。
その足のまま、シンドバッドのもとへ挨拶に行けば、身支度もあるだろうからと明日の仕事は免除となった。
彼の私室から戻りながら、ジャーファルに昨日のことを聞くことを忘れていなとこんなタイミングで思い出す。今までお世話に、と別れを告げたあとに、昨日のことを尋ねるのは明らかに順序がおかしい。聞いたところでどうにもならないことだ。それでも、国営商館から遥々緑射塔の自室まで重い人間を運んだ礼は、一人間としてのけじめだろう。散々悩んだ挙句、執務室にいればお礼だけしようと考えた。
紫獅塔から白羊塔までのそう長くはない道のりで、足取りの重さを自覚する。
執務室に近づくにつれ、先ほどは漏れていた灯りが消えていることに気づいた。近づいてノックをしても反応はなく、ノブを回せば鍵が掛かっていた。
――ほっとした。
振り返り、すぐ先にある中庭に足を運ぶ。風に揺れる芝生に仰向けに寝そべり、空を仰いだ。
シンドリアの月は煌々としていて眩しい。
紫獅塔も、白羊塔も、銀蠍塔も、赤蟹塔もみな少しの明かりもない。緑射塔と黒秤塔だけはひとつふたつと明かりが灯っていて、もしかしたらヤムライハがまだいるのかもしれないと想像した。
「……選んだら、迷わない」
選んじまったからな俺は、とユーリは自分で進んだ選択に迷わない。その強さが、羨ましい。シンドバッドに声をかけた時点で、もうその足は竦んでいた。
アレクセイを止めると決めた。本当にその瞬間に戻れるかなど保証はないが、一度決めたら迷ってはいけない。その分だけ、揺らいだ剣は弱くなる。
――揺れるな。
「…っまだ、為すべきことが、ある、んでしょう……っ」
月が霞む。噛み締めた唇が痛い。
――果樹園の匂いが、海の匂いがした。ここにいた記憶が、彼らとの思い出が、足元を揺らがせてしまうなら。
両足を踏みしめて立ち上がる。少しだけ小走りに、緑射塔へと向かった。
部屋に戻れば、ロゼがまだ起きていた。彼女はゆったりと視線を上げて、瞬きを一つする。
「……ロゼさん。最後に、我儘を、言ってしまっても、いいでしょうか」
「……ええ。貴女がそれで、いいのなら」
彼女の頷きに安堵した。
共用のタンスの中に、あの世界で着ていた服がある。胸元に繕った跡を眺めて、袖を通した。きっと、これはロゼが縫ってくれたのだろう。縫い目の不器用さが、ズボンのそれとよく似ていた。
腰に下げたベルトに長剣を通し、ペンダントのチェーンから、指輪を外す。どの指に付けるにも大きすぎて、以前使っていた髪紐に指輪を通し手首に括りつけた。
そうして、ペンダントを、眠るジュリィの首にそっと回す。
「……すみません、皆さんに言ったら、私、」
「――大丈夫よ。私がちゃんと、伝えておいてあげるから」
「――……最後まで、有難うございます」
ロゼは棚の奥に隠していた魔法の杖をひと振りしてみせた。
「私の滅多に見れない魔法で、連れてってあげるわ」
ヤムライハとは異なる小麦色をした杖に、彼女の故郷を見つけた気がした。
「よろしく、お願いします」
* * *
彼女の杖に乗れば、ふわりと宙を浮いた感覚に全身に鳥肌が立った。足元になにもないこの感覚には、慣れそうもない。
「ロゼさん、結局、ジャーファルさんに昨日のこと聞けませんでした」
王宮がだんだんと離れていく。煌々とした月に近づくたびに、その淵にだけでもと手を伸ばしたら届きそうだった。
ロゼは、前を見ながら笑っていた。
「だと思った」
きっと、彼女にはすべて見透かされているのだろう。
「……ロゼ、さん」
「なあに?」
こんな静かな世界に落ちた声など、誰に聞かれることもなく漂っていくだけなのだろう。
「――わたし、ジャーファルさんが、好き、だったんです」
憧れだと嘘を吐かないでも、そんな声ごと飲み込んでほしい。
けれどきっと、彼にはあの女性のような文官が隣にいるほうがいいのだろう。ルフもなく、向こうの世界への未練も捨てきれずに揺らいでばかりのナマエには、隣に立つ資格もない。
――ただ、その隣に立つ誰かに向けるひとかけらの記憶のどこかに、ナマエの姿があるといい。
それぐらいで、いい。
「――この世界が、皆さんが好きです」
「あら、ついで?」
「ふふ、そんな意地悪を言わないでください……もしも、また、世界のどこかで繋がったら、会いに来ても、いいですか?」
もうすぐ港の上空だ。向こうの海が、光っているのが見えた。
「ナマエ」
「え? なんですか、ロゼさ――ん?」
前を見ているロゼの口元は閉ざされている。彼女の声にしては確かに遠い声だ。ただ、叫ぶような大きなものではなく、まるで、耳元で弾けたような、そんな小さな音の塊。ナマエと、最後にもう一つ、弾けた。
波の音に紛れるそれに、恐る恐る、下を見た。
港場に、影がひとつ、落ちていた。
「っ」
クーフィーヤが風にあおられて、相変わらず不健康そうな目元を晒している。
そんな彼の背後に大きな影が二つあった。彼の目線に釣られて見上げれば、少し後方に、浅瀬の色の杖を、鳥の羽ばたきを見た。
「――ジャーファル、さん、それに、ヤムにシャル、ピスティまで、なんで」
「ふふふ、だって私、ジャーファル様の部下で、貴女の監視役ですからね」
「ロ、ロゼさん…!!」
いたずらっぽく笑った彼女はそんなことよりと、目線を彼らに移した。ヤムライハの後ろで、シャルルカンが大きく手を振っていた。こんな静かな夜に、大きな声を出せば寝静まった人たちを起こしてしまうだろう。
はらはらと、月光を通る青が海に落ちていく。だから、会いたくなかったのだ。別れの言葉も、声も、こんなにも胸を苦しくさせてしまう。
「行ってらっしゃいって、言ってるわ」
風が強く吹いている。潮風は頬の涙をさらっていって、吐き出した言葉を彼らへ届けてくれるようだった。
「っいってきます」
足元の海が、眩しいほどの光を放っている。海のすべてがそうなのではないかと錯覚するほどの光に包まれていく。
行ってらっしゃいと、彼の声を聞いたような気がした。
ロゼの杖から手を離し、息を吸う。自由落下していく身体が、水飛沫を上げて海に落ちた。
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