落ちている。昏く音のない世界で、それでもただどこかに、落ちているのだと感じた。
生きていくことはできなかった。それでも、少しでも後悔のない最後にはできたのかもしれない。所詮自己満足に過ぎない言葉の羅列ではあったけれど、ユーリが斬った事実は変わった。
音がない。光もない。落ちていく暗闇の中で、閉じた瞼の隙間から、あふれ出ていくものを感じた。
彼らの世界が、彼らの選ぶ未来が、どうか穏やかで優しいものであるように。
祈っている。ずっと、忘れることなどなく、ただひたすらに。

それからどれほど経ったかわからない間、落ち続けていた。
最早落ちているという感覚が正しいのかさえわからないが、それでも、意識は途切れることはなかった。


(――?)


何かの騒めきのような、微かな空気の震えを感じた。
暗闇でしかなかった世界に、何かが反響している。次第に不明瞭なそれは確かな感覚を以て実感した。
音だ。甲高く、それでいて柔らかな音。
そして、ぶわりと潮の匂いが鼻腔を突き抜けた。


「――海?」


声などでないと思っていた喉奥から音が吐き出る。驚いて見開いた視界の先は、暗闇ではなく光だった。
いつだったか、見たことのある光の群れだ。それらは身体を何度も通り抜けては、頬にすり寄せるように掠めて飛んでいく。
――鳥だ。翼をもった光るそれに目を凝らせば、ふつふつと記憶が戻ってくる。
ヤムライハが魔法を解呪しようとした際に見せたあの光に似ている。彼女が愛していた、ルフと呼ばれる世界の全て。
鳥の鳴き声のような、そうではないような柔い音の重なりの正体はそれらのようで、一層波打つように鼓膜に押し寄せる。
目の眩む程の光に覆われた視界の隙間に、青を見た。手を伸ばしてから、両手がそこにあるのを知った。違和感もなく動く手足は、落ちていく風圧に圧されて自由には動きがたいが、それでも確かにそこにある。
あの青に届くには程遠かった。


「……っ…!」


帰ってきたのだ。
依然と身体は落ちている。吸い込む呼吸が苦しいと感じ、目の縁から溢れる涙が上空へと攫われる。潮の匂いが強くなっていった。
涙が青くきらめいて、嗚咽が空に融けていく。
刹那、ふわりと身体が浮き上がるような風を感じた。


「――ナマエ!!」


懐かしい声だと思った。時間にしてみれば一日もない、そんな短い間だったというのに。なんだかもう何十年も昔のような気がして、それでもはっきりと唇が象った名前に、確かに、ナマエはここにもいたのだと噛み締める。


「や、む、らいは」


声が、追いつかなかった。
ぼろぼろとこぼれる涙が唇を震わせるせいでできた、拙い音の繋がり。
彼女が巻き上げた風により浮いた身体を、杖に乗って飛んできた勢いのまま抱きしめた。太陽に照らされて、まるで浅瀬の海のような髪が風に揺れている。


「ナマエっ…おかえり」


そう笑った彼女の周りに漂う白く輝く淡いそれらが、ずっと視界を奪っているままで。いつまでもいつまでも、ちかちかと眩しかった。


「ナマエが、ここに落ちてきてくれてよかった…!」


そういわれて初めて足元を見下ろせば、そびえたつ王宮の姿があった。
紫獅塔の廊下から、シンドバッドとジャーファルが身を乗り出しているのが見える。見渡して、そうして、この世界がこんなにも光で溢れていることを知った。どこを見ても、白い輝きに目が奪われて、胸の奥から溢れ出る声とも涙ともなり切らない全てに、この世界に産み落とされたのだということを、ようやく理解した。


「ナマエ」


ヤムライハの細い杖に座りながら、拭っても拭っても止まらないそれらに袖が濡れていく。身体から零れていく鳥の羽ばたきが、ヤムライハと、そこら中を漂う彼らと、混ざり合っていく。


「もう、少しだけ、このままで……」
「ええ」


ゆったりと彼女が空を揺蕩いながら、落ち着いていくナマエの呼吸に合わせて降下していく。しとどに濡れた袖では何も拭えず、最後の大粒の一滴が、顎から伝い落ちた。
紫獅塔のバルコニーに近づいて、せり出した手すりに足をかける。思ったよりも身体が不安定で、ぐらついたナマエの身体をジャーファルが受け止めた。


「おかえりなさい、ナマエ」
「った、だいま、……ジャーファルさん」


涙と砂ぼこりでぐしゃぐしゃになった額を彼の胸板に寄せて、もう目の縁には戻らない足元に落ちていく粒に笑って顔を上げた。


「ただいま、ヤム、シンさん」


相変わらずシンドリアの強い日差しが肌を焼いている。酷い顔ねと笑ったヤムライハの声が、おかえりと目を細めたシンドバッドの声が、名前を呼ぶ、彼の声が、水面のあぶくのように揺らめいた。

潮の香り。芳しい果樹園の香り。
絶え間ない笑い声。柔らかな羽ばたき。透き通る貴方の、声。
遠い空に、揺蕩う海に、二人の隙間を埋めていく青が、透っていた。


君 と 青 に 透 る


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