後日譚 2
先程までマスルールと組手をしていただけだ。いつも彼が無言で聞いてくれていることに甘えて、今日も休憩の合間に悩みを吐いて、そうしたら、いつのまにか執務室の床だ。物理的にも急転直下の事態に足が竦んで立てる気がしない。ただでさえ魔力の出力が不安定になるまで出し切った後なのだ。ぐるぐると回らない思考回路で、それでも、ピスティの声が冷たい水のように思い出される。
「…急に、何だったんでしょう…大丈夫? ナマエ」
差し出された手を取ろうとして、一瞬躊躇う。
いつも何かあれば頼ってしまう武骨な手だ。酒を飲みながら皆により自覚的にさせられたのは、彼に対する蟠りだった。――中途半端に優しくなんて、しないでほしかった。
「…もしかして、立てそうにありませんか?」
「……マスルールが最上階から飛び降りたものですから、腰が抜けてしまって…」
「――そうですか」
では、仕方ないですね。
ジャーファルはそう呟くと両膝下に手を差し込んで抱え上げた。組手をしたばかりで汗も引いていないままだとか、砂埃だとか、いつもよりそばかすが近いだとか、頭の中が綯い交ぜになっていく。顔が熱い。ああもう頭が働かなくて眩暈がしそうだ。
そうして、彼はジュリィがいつも座っていた椅子にナマエを下ろした。
もう喉の奥で詰まって言葉も出ない彼女にジャーファルは少しだけ距離を置くように、執務机に寄りかかった。
「このほうが、落ち着いて話せるでしょう。体調は? どこも悪くない?」
こくこくと二度頷いたナマエに、彼は薄く笑った。
――ピスティが何か考えていそうな顔をしていたなと思った。酒場での彼女はずっと愉しそうで、そういう彼女は大抵何かしらを企んでいる時なのだ。それぐらいは分かる。それでも、まさかマスルールがこうして手を組んでいたとは到底考えも及ばなかったことだった。
――俺は、ジャーファルさんじゃないと、口数の少ない彼が選んだ言葉。
ナマエの考えてることは一人でも答えは見つかりそうかと、言っていたピスティの言葉は散々言われてきていたことだ。
官服の裾を握って顔を上げれば、ジャーファルはただこちらを射抜いていた。
「っジュ、リィのことを、このままにしていいのか…悩んでいました。あの子にとって、私は何になればいいのかも分からなくて、それでも、ジュリィには帰るべき場所もないです」
ジャーファルは、静かに言葉を拾っていた。
「このままここに居続けるのも、酷じゃないかとも思ったんです。食客でもないジュリィがいつまでここにいられるのかも分からなくて、」
「……シンドリアにも、育ての親を見つける場所もあります。親が亡くなったり、放棄されるような子供もいたりしますから。けれどそれは、彼女が決めてもいいことではないでしょうか。年端も行かない子が苦しくなるような程、財政は逼迫していないですよ」
一人の実在する彼女の道先の中に、ルフも持たない自分がいてもいいものかと思っていた。こうして世界にまた戻ってきて、ルフを持っていたとしてもこの国しか知らないナマエが、どうして誰かと共に生きていけるのだろうかとも考えた。でもそれはただの独り善がりで、そんなものすべて、ジュリィが考えて決めてよかったものなのだ。彼女の世界だ。ジュリィが自分自身で、どうしたいのかを選べばいい。シンドバッドはいつも、ナマエにどうしたいかと聞いてきた。同じでいいはずだ。どこもちっとも、変わらない。自分で選ぶことに、変わりはない。
「もしここにいたいと願ったとして、それでも、ジュリィにとってナマエがどう映るかはあの子次第だと思うんです。ただ向き合っていくことに変わりはないと思いますよ。それがどういう括りであったとしても」
勿論、私もです。
ジャーファルは目を伏せて、一歩、離れていた距離を埋めた。椅子の前で片膝をつけた彼と椅子に座るナマエとの間に少しの隙間。見上げる眦は緩く細めていて、形の良い紅い唇が息を吸うために薄く開いた。
彼のルフは真っ直ぐで、傷口を慈しむように柔らかくて、それでいて温かい。
「……ピスティが言っていたこと、あながち間違いでもないんです」
「え」
「マスルールと打ち解けてくれていたのも、魔法を使って組手をしていたのも。…あの日も、シャルルカンたちに連れられて酒場に行ってましたけど、あの二人は飲み過ぎると厄介ですから心配になってしまって」
――猜疑に塗れた目はいつだったか晴れて、過去を一緒に憂いてくれて、赦されて、そうして送り出してくれた。行ってらっしゃいと、おかえりがあった。彼との隙間には確かに、目には不確かなものがあったのだ。
「貴女の足元はまだふらふらとしていて、無茶ばかりして、だから――」
ピスティが言っていたことは、よくわかる。何度も何度も、聞いた覚えがある。
ルフが見えていなくなって、名前を呼ぶたびに変容していったもの。
ジャーファルの豆だらけの手のひらが、頬をやわく撫でていった。
「心配なんですよ。誰よりも」
(後日譚 2 了)
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