後日譚 3
目が覚めると、見慣れない部屋に居た。
恐らくあの後セレスタが医務室に連れてきてくれたのだろう。窓の外は太陽がこれでもかというほど燦々と照っていて、身体の不快感は殆どなかった。ゆっくりとベッドから起き上がると、少ししわがれた声が聞こえた。
「起きたかね」
返事を待って、彼は仕切り板をずらして現れた。初老の先生は、顔色と目の下、瞼の裏、口の中を確認して、最後に手首を返して脈を診ると頷いた。
「魔力切れを起こして連れて来られたときはどうなるかと思ったが、よかった。よく寝られたようだね。顔色も悪くない。私に魔力は見れないが、身体の方はもう大丈夫だろう」
「すみません…ありがとうございました」
「いや、なに。私は何もできなかった。君の身体が強くて助かったよ」
ベッドから立ち上がると、折角の白いシーツが薄汚れてしまっていた。頑張ってくれた証拠だねと彼が笑うので、思わず零れそうになる涙を飲み込んだ。
医務室を出て、緑射塔へと向かう。朝礼も始まっていない朝の静けさの中、ブーツの音だけが響いていた。
潮と雨でべたついた身体が気持ちが悪い。そう感じる以外はどこにも不調などなく、むしろ寝不足が冴えたのか、気分は晴れていた。
――ただ一つ、約束を破ってしまったことだけを除いては。
合わせる顔がない。自分の限界よりは十分足りると思ったのだ。それを欲を張った。もう少しだけルフの魔力を借りれば、よくなるのだろうと思ってしまった。それでも限界は越えないだろうなと考えていたのが甘くはなかったようだ。
三隊の仕事は思っていたよりも大変で、ただあの瞬間役に立てたのだと思えば散々受けた屈辱も見返せたと思えたのだ。魔法使いとしてうまく立ち回れていたかは分からないが、セレスタにはまだ三隊で頑張ろうと言われ、大男には及第点くらいには認められたのではないだろうか。それでも、こう魔力切れで倒れてしまっては振り出しだろうか。
こつん、と階段を上りながら、影が落ちていた。上の踊り場から、真直ぐに伸びる黒い影。その影は何もいわずにそこに立っている。
踏み出した足をすすすと一段下に下げれば、相手の靴底がすれる音がした。言い訳はできない。
「お、はようございます…ジャーファルさん」
時間をかけて顔を上げれば、最早無表情の彼がそこに立っていた。
この無音が恐ろしい。飲み込んだ固唾の音さえ階段に響いている。
「――言いたいことは?」
「…何も、ありません」
目を逸らしてはいけないことだけは分かる。顔も身体も擦り傷に泥まみれなんだろうなとも思うと今すぐ目の前から逃げ出したい気持ちで沢山だが、堪えた。
「…最善策だと思って、いたのですが、少し魔法を使い過ぎてしまったようで……すみません」
「ナマエが自分がした行動は間違いでないと思うのなら、軽率に謝ることは良くないと思いますよ」
怒っている。彼はそれはもう怒っているのだ。
――約束を破ったこともそうなのだろうけれど。
「……魔法を使ったことは間違いではなかったと思います。でも、その……心配、を、おかけしてしまったのは、私の至らなさの、所為です」
いつの間にか落としてしまった視線に後悔した。
かつんとジャーファルが階段を降りてくる音が続く。上げられない頭に、近づいてくる足元ばかりを映していた。
「抱きしめたら、怒りますか」
「――っ」
この身体も服も潮と泥まみれだ。彼の服は綺麗でこれから政務だというのに、それはなんて手間をかけさせてしまうことだろう。
「い、いやです!」
横を通り抜けて階段を駆け上がっていきながら、盛大な言い間違えに気づいた。
* * *
それから数日。
医務室から帰ったあの日、そのまま湯を浴びて身支度を整えて赤蟹塔に顔を出せば、出会い頭早々にセレスタに仕事を辞めろとどやされた。
一緒に頑張ろうと言っていたあの言葉はどこに消えたのか、今は会うたびに辞めろ辞めろと言ってくる始末だ。魔力切れで着任後に即医務室行になった魔法使いをどう思ったか怖くもあったが、初日のような嫌な目線は減ったように感じる。しかし訓練用の武器を出せだの仕舞えだの地味な遣いっ走りぶりは発揮されているが、まあかわいいものだろう。
三隊の訓練はマスルールとの組手のようで、常に投げられていた。魔法は普段は使わないようにしているので、容赦なく投げ飛ばされ蹴飛ばされ吹き飛ばされの繰り返しだった。おかげで生傷が絶えないが時折食堂で向かいに座るアルサスにはもうすっかり慣れたみたいだねと言ってもらえたことで、自分の中でも飲み下していけるようになっていった。彼とはいいパートナーであり続けたかったのだが、三隊にいる限りは難しいことなのだ。
――なんて、そんな武官としての日々を充実させている場合ではない。想いを告げて半年間お互いに時間を取ることもできず、漸く見たかと思えば唐突過ぎた申し出を無碍に断って、一週間だ。タイミングが悪かったのだ。いやだからこそ彼もあえて聞いてしまったのだろうとは思うし、どう考えても、三日潮風を浴びた身体は無理だ。ナマエが無理だ。野宿もなんでも散々してきたが、これだけはなんだか最後まで守り抜かなければならない矜持なのではないだろうか。捨ててはいけない所ではないのだろうか。
ただ明らかに、選ぶ言葉は正しくはなかった。
「……間違えた…」
「ああそうだな。ここを選んだのが間違いだ。是非とも辞めてくれ頼むから今すぐにでも。せめて十三隊に戻ってくれ」
午前の個人訓練でセレスタと銀蠍塔で剣を交えていた。熱すぎる日差しに休憩を取りながらそんなふうに零してしまえば、案の定思った通りの返答が返ってきた。
「ーーセレスタさん、意見が百八十度変わりましたね」
「ばっかおまえなァ! ……ナマエに何かあれば、俺はあの方になんて言えばいいんだよ」
「――あの方?」
周りの三隊に聞こえないように、ぼそりと零したのはジャーファルの名前だった。
「そ、それが一体なんでそんな話になるんです?」
一瞬声がどもってしまったのはまさに考えていた渦中の人であったからだ。
セレスタは意味が分からないという顔を浮かべながら、立ち上がった。
「お前なあ、普通はあの方らのそういう人っていうのは前線に出ないで守られるほうだろうが」
「――どういう、意味ですか」
思わず低くなってしまった声に、彼は気付きながらも声音を変えずに続けた。
「バレたら人質に取られやすい、国の重鎮の家族なんてそれだけでうまい話だ。しかもそれが前線にいるんだぜ? いいカモだろう」
「……国の重鎮だろうと、誰だろうと、そんなものに差はないはずです。仮令セレスタさんの家族でも、アルサスさんの誰かでも、そこに差なんてないでしょう」
「おいおい、それは綺麗事だろうが」
――いや、分かる。ヨーデルとナマエであれば、それは皇帝候補のヨーデルを優先されるべきだ。上下はなくても、優先されるべき事項であると彼は言いたいのだ。
分かる。そんなものないのだということは簡単だ。理想を掲げるのは悪ではない。どちらの言い分もよくわかってしまうからこそ、押し黙るしかなかった。
セレスタは、少し残念そうに眉尻を下げた。
「…俺は、アルサスと隊長を目指すって決めてたんだ。お前もそこに居たら、面白そうだろうと思っちまったんだよな」
ナマエは、刃引きの剣を握りしめて立ち上がった。
「セレスタさん。剣の勝負をしましょう」
「…勝ったら、辞めてくれんのかよ」
「私が勝ったら、二度とそんなこと言わないでください」
(後日譚 3 続)
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