山積みの書類を捌き仕事を終えたのは、月もだいぶ傾いてきた頃の事だった。
誰もいなくなった執務室の扉を施錠し、恐ろしく静かな廊下を歩いていく。反響して響く足音を聞きながら、紫獅塔へと続く道を曲がらずに突き進んだ。その先にあるのは食客たちが住まう緑射塔である。
彼――ジャーファルは一瞬立ち止まり、浅く呼吸を繰り返してから足音を殺すように再び歩みを進めた。
件の彼女がいようがいまいが、こうして王宮内を己の目で見て回ることも大切な役割だと思っている。何も門番たちを信用していないわけではないが、些細な変化もそれがこの国に住まう――ひいては王の身に降りかかるものであるならば、知らなかったという言い訳は通用しないのだから。
階段を上りきったところで、ぼそぼそと話す人の声を聞いた。聞き覚えのあるその声にはっとした。瞬時に眷属器へと手を伸ばし、硬く冷たい刃に指を添える。
柔らかな月の光によってできた影に身を潜め、壁に背を預けながらそっと顔をのぞかせた。
(……っアラジンが何故……?)
そこには、床に座り込みながら柱の傍で談笑する、アラジンとナマエの姿があった。小声で楽しげに笑う二人は、時折真剣な顔をして言葉を紡いでいる。彼はぐ、と眷属器を握りしめて、それから、そっと手を放した。
「ナマエさんはそんなに広い世界を旅していたんだね」
「そう、本当に世界は何処までも果てがないくらい広かったよ。船が壊れて、分厚い流氷の上を歩いたこともあったし、灼熱の砂漠を越えたこともあったなあ。春になるとハルルっていう街は本当に綺麗になってね、また、見たかったなあ――」
ふふ、と笑った彼女の髪が揺れた。月明かりにきらめいて、ほんのりと青みを帯びるその髪が綺麗だと思った。
――彼女はきっと、嘘をついてでも誤魔化したかった昔の話をしているのだろう。小さな少年だからいいと思ったのかは分からないが、昔話をするナマエの表情は穏やかでいて酷く痛々しく、今にも泣きだしてしまいそうだった。そんな表情をぶら下げて、やはり彼女は笑うのだ。
「――アラジンは、後悔しない道を選んでね。私はたくさん間違えてしまったから、君に言えることがあるとしたら、それくらいしかないけれど」
眉尻を下げて微笑むナマエに、アラジンは数度瞬きをしてにこりと笑った。
「ナマエさんは強くて優しい人だから、きっと大丈夫だよ。……前へと進もうとする心を、ルフ鳥は導くんだ」
だからね、大丈夫だよ。
するりと解けていくような声だった。ただその声を聞いていたジャーファルでさえも、アラジンの優しい声音は心臓の奥のほうでゆるりと溶けて温かく感じた。
――揺らぎだと、思えた。初めて会ったその時から、彼女はこの世界になじんでいないまるで糸の切れた凧のようだと思っていた。ふらふらと足場はおぼつかなく、いつでも容易く崩れてしまいそうだった。今思えば、あの時感じた"揺らぎ"というものの正体はそこにあるのだろう。
「……あり、がとう」
何度も呟く声が、痛かった。
(ルフの、導き…か)
以前シンドバッドから告げられた言葉が、何故か重たく圧し掛かった。それならば、ここで彼女がアラジンと会って話していることもその場に居合わせたこともすべて、そのルフの導きというものなのだろうか。馬鹿馬鹿しいと、吐き捨てることなどできなかった。
「――僕には……ナマエさん自身のルフが見えないけれど、でもナマエさんに惹かれてくるルフが優しいから」
「……ルフ?」
「そう。でも、きっとそれがなかったとしても、ナマエさんはきっと、大丈夫なんだよ。だからどうか、泣かないでおくれ」
声を押し殺した。思わず漏れそうになった言葉を飲み下し、拳を握る。やはり彼も、知っていたのだ。
昼間のシャルルカンとの試合でヤムライハが見たもの、いや見えなかったもの――それが、ナマエ自身に宿る"ルフ"であった。生きとし生けるものすべてに宿るルフはその人間の純然たる力の源であり、ましてや魔法を使う魔導士たちにとってその身体に宿るルフの量、すなわち魔力は絶対的な意味をもつものであった。それが、彼女にはない。
「――ルフが、ない?」
「…はい、私にも…アラジンくんにも、見えなかったようです」
「彼女は魔法を使うのに、ルフがないなんてそんなことあり得るんですか?」
「魔法を使う以前の問題です…っ。ルフがない人間なんて、」
あり得るわけがない。震える唇で呟いた言葉に、返す声もなかった。シンドバッドもジャーファルも、金属器、眷属器を扱う人間だ。魔力の如何についてはそこそこの知識がある。そんな彼らでさえ、彼女の言わんとしていることがわかるのだ。――呼吸さえ、忘れていたような気がした。
「…彼女は、この世に存在していないとでも?」
「……死にゆく者は皆、大いなるルフの流れに帰っていきます。いうなれば、死んでいる者でさえ、ルフというものは少なからず持っているのです」
そうだというのならば。今目の前に存在している彼女は、一体何者だというのだ。
(……あの人は、どこから来たっていうんだ)
まるで、ただ何の色もない水を掴んでいるような。指の隙間から零れて躱されていくような、そんな不確かさを覚えた。
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