不思議な少年だった。見た目はどこにでもいるような幼く小さな子供なのに、彼の声も言葉もとても重たくそれでいて透明な、透き通るような意思を孕んでいる。大丈夫だよ、と繰り返すアラジンは笑っていた。
真上にあった月は疾うに傾き、仄暗い影がさらに伸びていた。
「もうそろそろ、部屋に戻ろうか」
「うん、お休みナマエさん」
「お休み、アラジン」
立ち上がったアラジンは手を振りながら、緑射塔の奥へと戻って行った。小さな背中が影に消えるのを見送り、彼女もゆっくりと立ち上がる。手すりに身を預けながら、ただぼうっと空を眺めていた。
「――誰ですか? ずっとそこにいるのは」
視線を逸らすことはなく、どこともしれない何かに意識を向けながらはっきりと声を上げる。その誰かが、どこにいるかまでは分からなかった。それでも微かに感じる気配はアラジンと話し始めた頃からちらつき始め、今でも変わらずにどこかに潜んでいる。夜中のこんな時間だ、大方の予想はついていた。
気配の正体がそのままどこぞへ隠れてしまうのであれば、それはそれで構わない。殺気のような、そういった悪意は一欠けらも感じなかったから。
少しの間をおいて、階段側のほうからこつんと控えめな足音が響いた。
「…ジャーファルさん」
「気づかれていましたか」
「……隠れるつもりは、なかったでしょう?」
影を踏み越え現れた彼はクーフィーヤを翻し、その青白い肌を浮き彫りにさせる。髪の白さが月の光にきらめいて、それがあまりに儚く希薄なもののように思えて思わず息を呑んだ。ジャーファルは薄く唇を横に引き、まっすぐにナマエを射抜く。暗い色をした双眸が、頑なな意思を帯びていた。
「こうして見回ることが日課でして。声が、聞こえたものですから。貴女のほうこそどうしたんです、こんな夜中に?」
「…目が覚めてしまったんです。それで、つい出歩いてしまいました」
苦笑いに近い笑みを浮かべながら彼を見やれば、ある程度の距離を保ったまま彼もまた手すりに右手を添えた。初めて会った時と変わらずその顔は疲れていて、文官が、というよりジャーファル自身が忙殺される毎日を送っているのだろう。――そんな中こうして、得体の知れない人間が王宮に身を寄せているのだ。彼の心労はいかがなものかと思えば、どうしようもなく笑えた。その原因が彼女自身であるという事実は、どう弁護しても拭えないのだから。
「…眠れないのですか」
「いえ、ただ…今日は、月が眩しいなあと」
再び視線を上空へと戻せば、片割れ月が笑っていた。どこから見上げようと、いつだって変わり映えのしないものであるはずなのに。ひょっこりと顔を出した寂しさにアラジンの声の名残を追いかけながら、瞬きを一つした。
「あなたのいた国では、馴染みのないものなのですか?」
「そんなことありませんよ。どこでも同じように、ずっとそこにいるものです」
地方によって月の捉え方は異なる。大陸ごとに見えるものは違うのだ。彼は恐らく言葉の節々でナマエという人間を推し量ろうとしているのだろう。
酷く煩わしい。彼だけでなく、この世界も自分自身でさえも。つい俯きそうになった顔をあげ、笑顔を張り付けた。
もういいのだと、誰かが叫んでいた。
「……私のいた国…いえ、世界は、結界なくして、こんなにも穏やかな夜はありませんでした」
ジャーファルの呼吸を詰める音を聞いた。嘘を重ねていくことでここではない世界を想う気持ちが、日を追うごとに褪せてしまっていくような気がしていた。わかっていたのだ。ただただその事実に気づきたくなくて、馴染むこともできずに呆然と眺めていただけで。
「私のいた世界はテルカ・リュミレースと呼ばれ、たった一つの帝国が世界を統治していました」
それぞれの大陸、街ごとに執政官による自治をある程度認められていたが、どこをいってもこの国のように"王様"と呼ばれる人間を据えて一つの国家体制を築くことなどありえなかった。だからこそ、この国の王なのだと誇ったシンドバッドの立場も、漸く最近理解し始めたところだった。
険しくなる眉根の皺の意味を知っている。彼女自身当たり前だと思っていた世界の話をすることがとてつもなくおかしかった。笑える余裕など、本当はありもしないのに。
「私にとって、この王国と呼ばれる国家体制自体、あり得ないものでした」
淡々と事実のみを告げていく。そうでもしなければ、頭の中で絡み合った糸が解けそうになかった。
彼は何かを言いかけて口を噤み、官服の袖を口元に押し当てた。
「…街をでれば凶悪な魔物が住みついていましたので、大半の人は結界に守られ、外の世界を知らずに死んでゆきます。私のいた世界で、街を守る結界もなくあんなにも楽しげな人たちの声を、聞いたことがありません」
「……ならば…全くの別世界から来たのだと、貴女は言うのですか」
彼の鋭い双眸が、揺らいでいた。きっとそこに映るナマエの瞳も同じほどに揺らいでいることだろう。こうして世界の話をするたびに湧き上がる疑問は、疑いようもなく確信へと突き進んでいる。自分の手で、可能性を絶っていっているのだ。
彼女は左耳の魔導器を外して手のひらに転がした。遠い昔、幼かった彼女に身を守る術として与えられたそれは、今でもやはり重たいものだった。
「――もし…もしも、私の守らねばならない相手の近くに、得体の知れない人間がいれば疑います。貴方と同じことを、していたでしょう。…貴方の目が腹立たしいとは思いますが、それは仕方がありません。それに、私も自信がないんです。……、まだ、信じたくない」
声が震えないように、虚勢を張って。切なさに歪まないように笑顔を取り繕い、手のひらを握る。硬い魔導器の感触が、今は酷く優しかった。
こつんと踵を鳴らして近づけば、ジャーファルは唇を真一文字に引いて見つめた。その顔面に拳を突き出し、手の甲を翻す。青白い光を受けて、赤い魔核(コア)が輝いていた。
「…これは、」
「私たちはこれを魔導器と呼んでいます。より強力な魔術が使えるようになり、身体能力も向上します。もっとも、この世界で何故使えるのかも、あなた方が使えるのかもわかりませんが……」
「ブラス、ティア…ですか」
広げられた彼の手に落とす。金属の反射に目を細めながら、眉尻を下げて微笑んだ。
「ペンダントも魔導器も、捨ててくださってもかまいません。私の治癒魔法なんて微々たるものですし、もう…隠すことも、しませんから」
ジャーファルはすっと双眸を細めるだけで、何も言わなかった。魔導器を睨みつけたまま、微動だにしていない。
「…ルフというものが何なのか、私にはわかりません。でも…アラジンがああいうのですから、やはり私は違う世界から来た……ということ、なんでしょうね」
失礼します。そう頭を下げた視界の端で、ジャーファルの官服の裾が揺れた。下唇を噛み締めて、踵を返す。最初と同じ静かな廊下に、一人分の足音だけが響いていた。
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