一睡もすることなく、白んでいく空を見つめていた。この国に来てからというものの、夜中に一度も目を覚ますことなく眠りにつけた日は一度としてなかった。寝不足の所為でぼやぼやとした意識にも、もう慣れてしまった。
鉛色の雲が厚みを増していき、その日は雨が降った。細い雨が降り続ける音に耳を傾けていると、隣のベッドでロゼが目を覚ます。おはようございますと、笑って挨拶できたかは自信がなかった。身支度を整えた後朝食に誘われたけれど、眠っていない所為か食欲もなかったので断った。仕事の時間になるまでベッドで寝ころんでいようとは思ったけれどやはり睡魔は襲ってこず、呆然と空を見上げているばかりだった。


(この国を出たら…どこにいこう)


もう、ここにはいられない。違う世界から来たなどと気狂いじみた妄言を、誰が信じてくれるというのだ。
きっと、あの青の先は途方もないほどに広大で――。

息が、詰まった。ああそういえばとぽつりと声を零す。

海に囲まれたこのシンドリアしか、知らない。あの大きな海を越えた先に何があるのか、知らない。
見知らぬ土地があるということに、ただただ不安と絶望に似た思いしか湧かなかった。一人で旅をしていた頃もあったというのに、大勢といることに慣れ過ぎて。隣に、誰もいないことが怖くて仕方がなかった。
ここを出ていったとしても、この臆病な両足だけで一体どこに行けるというのだろう。


コンコン。


乾いた音が響いた。ロゼはノックをしない。その音は、この部屋の住人である彼女か或はナマエのどちらかを呼んでいる。
どうか、このまま立ち去ってほしいと祈った。今誰かとまともな会話を交わせる自信も気力もない。それでも、もう一度、今度は心なし強めにドアを叩かれた。


「ナマエ、いるか?」


シンドバッドだ。後から付け足された名を聞かずとも、声だけで分かった。それでも、この重い腰はベッドから上がらず、声も出なかった。王様に足を運ばせ且つ呼ばれても部屋から出ないなど、不敬罪で処罰を受けるだろうか。どうでもいいような思考に笑い、ベッドサイドのチェストを支えに立ち上がる。ふらつく足を叱咤して、頬をはたいた。情けない。情けない、けれどそれを笑い飛ばせるほど強くはなかった。寝不足の所為だけではないこの気持ち悪さを飲み込んで、ドアを開ける。


「すまない、起こしてしまったか」
「いえ、すみませんお待たせして。少し支度をしていましたもので…。王様自らこんな所へ、どうしたんです?」



体格のしっかりとした彼の背後を見やれば、そこにはジャーファルと黒いトンガリ帽子を被った女性――確か、ヤムライハと呼ばれていただろうか――がいた。銀蠍塔のあの場に彼女もいたけれど、結局挨拶をしそびれてしまっていた。一瞬固まった彼女にシンドバッドは朗らかな笑みを浮かべる。


「少し、時間をもらっても? ロゼにはもう伝えてある」
「…はい」


どこか部屋に移る様子ではなかったので、どうぞと扉を全開にした。彼はすまないなと一言断り、ゆったりとした歩みで部屋に入る。次いで後ろを歩いていたジャーファルの手には、見慣れた黒い鞘の長剣が握られていた。こんな時間にわざわざ緑射塔にまで来て、さらには彼女の長剣を持っているのだ。これでただの世間話をしてきたのだろうなどと思う人間がどこにいる。
ぱたんと静かに閉めた扉が、とても重かった。


「朝食は、もう摂ったかな」
「いえ、これから頂こうと」
「そうか、ならば話は早く済ませよう」


絶えず笑みを浮かべているシンドバッドは、窓側に設えたテーブルの席に座るよう促している。失礼しますと一言告げてから腰を下ろせば、彼もまた席についた。さして大きくない丸形のテーブルに、ジャーファルが音も立てずに長剣とペンダント、そして魔導器を置いた。耳元で振り続ける雨の音が、少しだけ煩わしかった。


「これは、君に返そう」


太ももの上に置いた両の指を絡めた。俯いては、いけない。
乾いた喉に生唾を流し、ぎこちなく笑い返す。シンドバッドの双眸が痛くて、彼の喉元に視線を落とした。


「…私は、何をすればいいですか」
「――対価を求めて返すわけじゃないさ。でも、君がそう言ってくれるのであれば俺は…ナマエがどこから来たのかが、知りたい」


思わず顔を歪めた。彼の顔は紛れもなく、ナマエが何者なのかという答えを欲しがっている。物と引き換えにしなくとも、素直に尋ねられれば答えるのに。そんな思いが過ったけれど、始めからこんな風な関係だったからなのかもしれない。


「…昨日、アラジンから聞きました。私には…ルフというものが、ないそうですね」


視界の端でヤムライハが生唾を飲み込んでいた。刹那の静寂の後、彼女は怖々とした声で呟く。


「……ルフが、なんなのかは知っていますか?」
「――いいえ」


やっぱり、と声が落ちた。彼女の青緑色をした瞳が大きく揺らいでいる。シンドバッドの顔が、一瞬にして強張った。


「生きとし生けるものありとあらゆるものの中に存在する大いなる源を、私たちはルフと呼んでいます。魔法は、彼らと語りあうことで使うことができます…だから、私は貴女のような人を見るのは初めてです」
「そのルフがないということは、この世界ではありえないということなんですね」


この世界では、という含んだ言い方に他意はない。ただ自覚してしまっているからこそ、このテーブルを挟んで絶対的な違いが生まれていた。
ナマエは瞬きを一つしてヤムライハから視線をずらし、再びシンドバッドを見つめた。


「私には、ただここが違う世界なのだということしか分かりません。王国というのも、ルフなんていうのも、この世界のあり方も、私には知らないことだらけです」
「…君は、違う世界からきたのだと…?」


そんな顔しないでください。そう苦笑いしながら言えば、彼は口元を覆うようにその大きな手を押し当てる。彼女はふいに雨粒の落ちる空を見やり、呟いた。


「……シンさん、あの海を越えると、どこに行けるんですか?」


階数が高い所為でシンドリアを見渡せるこの部屋でも、視界の端に映るのは切り立った崖と鈍色の空ばかりだ。彼女の問いかけにシンドバッドもつられて外を見やり、小さく笑った。


「あの海を越えれば、大きな大陸がある。いろんな国があって、様々な民族が暮らしているんだ」


ナマエの世界は、概ね一つの民族しか存在していない。大陸ごとの地域性はあったけれど、どこに住む人も同じであった。


「いろんな国…ですか」


この感情を、どう表現すればいいのだろう。混ざり合っているせいで一口に言い表すことなどできないけれど、一つだけ確かにわかることがあった。
――やはり、この国を出ていっても一人で歩くことはできない。いくら剣の腕がたっても、国を渡り歩けるほどにお金を携えていたとしても。


「この国を、出ていくのか?」
「…シンさん、私のいた世界は、今思えばとても狭かったのかもしれません」


凶悪な魔物の所為で力のない市民は町から出ることもかなわず、不安定な魔導器に依存して笑っている。それがあの世界での当たり前だった。しかし、この世界はそんな制限もなく、人々は自由に海を越え、国を築いて生きている。衝撃、というのだろうか。世界が違う。基本的な生き方が違う。
帰りたいと叫ぶ声を聞いた。それでも、もうあの世界には帰れないのだろう。一人でも生きていくしかないのだと、押し付けられるなら。それを強制されるほどに、どれほど世界に嫌われてしまったというのだ。


「…この剣を返して下さるということは、もう疑いが晴れたということでいいんですか?」


ぐと奥歯を噛んで前を向く。ジャーファルを見つめれば、彼は昨夜のようにただ目を細めるばかりだった。彼の視線が痛いのだ。何をするにしても、決めつけられてしまってばかりで息が詰まる。かたんと椅子から立ち上がり、拳をつくった。


「魔導器がなければ私には魔法が使えません。剣がなければ弱い。昔の思い出を切り離せるほど、強くはありません。
もしまだ疑われ続けるというのであれば、私は受け取らない」


彼は、瞬きを一つした。
ナマエは右手で剣を握りしめ、胸の前に掲げる。この剣は、十何年とずっとともに歩いてきたのだ。剣士にとってこれ以上のない誇りだった。


「私は守りたいもののために剣を振るってきました。それは誰かの命を奪うためなんかじゃない」


ジャーファルの唇が微かに震えた。感情のない、ゆるぎない双眸が彼女を射抜く。じとりと手に汗が滲んだ。
ちらりと魔導器を視界に映す。それはいつもと変わらず鈍い輝きを放ってそこにいる。


「…何か、何か一つ手放すならば」


どれにしますか。押し黙り続けたせいで少し嗄れた声が、弾けた。間に座るシンドバッドが後ろを振り返るも彼は構わずに、視線を逸らさなかった。
試されている。無意識に、口元が緩んだ。


「…私には、致命傷は癒せません。魔術の論理も得意ではありませんでしたので、ほんの少しの魔術しか使えません。切り捨てるなら、一つしかありませんよ」


曇りない刀身がむき出しになる。何を、と漏らしたシンドバッドが眉根を顰めたところで、彼女は苦笑した。静かに切っ先を魔導器に宛がう。躊躇いはなかった。何か一つ手放すことで、彼女自身も踏ん切りがつくような気がしたから。
しかし、切っ先がピアスを突いて壊すより先に、にゅっと肌色の何かが刀身を握りしめた。肌を切り裂く音がして、赤い何かが舞う。ぼたりと、刀身を這うようにテーブルに伝い流れたのは紛れもなく、血液だった。


「…っは、え――シン…さん!?」


目元を歪めるシンドバッドは、ナマエが驚いて手を放した剣をテーブルに戻して笑った。一瞬で頭が白くなり、言葉になりきれなかった声が舌先で転がる。彼の後ろについていた二人が叫ぶ声が響いた。


「シン!?」
「っな、にしてるんですか!!」


ばっと血にまみれた右手を握り、素早くファーストエイドと呟く。机上の魔導器が呼応するように淡い光を放ち、温かい鮮血の名残だけがぼたぼたと流れて落ちた。


「ほらな、ナマエ」
「ほらなってシンさん馬鹿ですか! 素手で剣なんてに、ぎ――!」


何事もなかった左手で、彼女の手を包むように添える。酷く、温かかった。
彼は幼い少年のような笑みを浮かべて、なんてことないような口調で言うのだ。


「致命傷を癒せずとも、傷を癒すことはできる。何より、本当は君の大切なものなのだろう? それならばみすみす壊してしまうことはない。それに、こうして俺の傷を癒してくれた。それだけで十分だ、なあ?」


ジャーファル。困ったように彼の名を呼ぶ声が予想以上に穏やかで、見たこともないほどに慌てた彼の表情が珍しくて、シンドバッドの手が温かくて。この状況のすべての所為で、声が、出なかった。


「…俺は、自分を信じているんだ。だからナマエも信じる。大丈夫、君は一人じゃないさ」


だから、そんな悲しい顔をしてくれるな。
滅茶苦茶だと、笑ってしまうほどにその言動は突拍子もないのに。
独りじゃないよと、彼は言った。大丈夫だよと、アラジンは笑っていた。
声が、緩やかに溶けていく。心臓の奥で馴染んでは消えて、仄かな温度だけを残して。


「…わ、たし…ここにいても、いいんですか…?」
「ああ、勿論だとも」


ぎゅうと握りしめられた手は優しくて、どこかで聞き覚えのある鳥の羽音に似たそれを聞いた。足の力が抜けてへなへなと椅子に座り込めば、ふいに鼻の奥が痛んだ。
居場所を、与えてくれた。この世界ではありえないような存在を、認めてくれた。ここにいてもいいのだと、笑ってくれた。それだけで、十分だった。


「っ」


ぐちゃぐちゃに視界が歪んでいくのに気が付いて、握りしめた両の手に額を乗せる。声を押し殺して、テーブルにぱたぱたと落ちる透明な色を見つめていた。
ありがとう、と呟いた声は、きちんと伝わっただろうか。

言葉にできない声を飲み込んでいくうちに積もった思いを流すように延々と泣き続けていれば、いつの間にか眠ってしまっていた。あの時死ねばよかったねと、泣いていた声は聞こえなくなっていた。


- 45 -
BACK TOP