肌を這うような湿っぽい風がそよそよと流れる。眩しいほどの光に目を覚ました。じめじめとした空気を吸う。熱に浮かされたような重たい頭では何を考えることもできず、ただ長い間の癖で起き上がりながら隣のベッドに視線を巡らし、おはようと呟く声を呑んだ。いつも隣に寝ていたのはエステルかリタで、ナマエが目を覚ます頃にはまだ布団の中でもぞもぞと寝返りを打っていることのほうが多かった。だから、少し戸惑う。布団の膨らみもない空のベッドを見て、漸く自覚するのだ。この瞬間ばかりは、未だ慣れずにいた。
「…あのまま、寝ちゃったんだ…」
彼らがこの部屋を訪ねたのが今朝の事なのか昨日の事なのか、はたまたもっと前の事なのか、眠っていたせいで時間の感覚が狂いはっきりとしない。それでも既に太陽が真上に上っていることから今が昼なのだということはわかった。
分かってはいるものの隣のベッドを触れば人の温もりなど疾うに失せていた。ふとベッドサイドのチェストが視界に入る。そこには銀のペンダントとピアス型の魔導器、そして一枚の書置きが残されていた。小さな紙には数字のようなものと蛇がのたうち回った様な文字らしいものが書かれている。どうやら言葉は通じるが文字は読めないらしい。もし仕事についての書置きであったらどうしようかと透かすように翳してみたりするものの、読めるようになるはずもなかった。
溜息を吐いた。はあと重苦しい声は部屋にこもり、彼女はベッドに上半身を沈める。
――相変わらず心臓のすぐ近くに潜む寂しさが鋭い痛みを訴えるけれど、もう息苦しくはなかった。息が、しやすかった。肺を押し潰すように積み重なっていた鉛がひとつ、落ちてゆく。
『大丈夫、君は一人じゃないさ』
下唇を噛み締める。この伸ばしかけた手は、一体誰を掴めばいいのだろう。
「ひとり、じゃ、ない…か」
この世界を、自分自身を、彼らを。信じてみても、いいのだろうか。
こんこん。
控えめに、少し躊躇うように呼びかけられた音に首を傾げた。シンドバッドではない。ジャーファルでもないだろう。彼らならば躊躇うこともないはずだ。
「はい」
ふにゃりと曲がったブーツに足を突っ込み爪先を慣らしながらドアを開ければ、そこにはエメラルドに似た髪色をした女性、ヤムライハがいた。目が合って数秒、お互い何も言わず、言えずに黙り込んでいた。何とも言えない沈黙が二人の間に落ちる中、口火を切ったのは彼女のほうだった。
「えっと…体調は、どうですか? 寝不足と疲れが溜まったんでしょう、丸一日寝込んでいたんですよ。お水、どうぞ。きっと喉が渇いているんじゃないかしらと思って」
少しぎこちない笑みを浮かべ、盆にのせたコップを手渡す。ぽちゃんと透明な水がはねた。
「お気遣い有難うございます。もう、大丈夫みたいです。ご迷惑を…おかけしました」
両手で包むようにコップを受け取れば、ひんやりと冷たくて心地が良かった。ヤムライハは唇を頻りにもごもごと動かしながら、視線を泳がしている。ナマエは暫しの思案を挟んだ後、扉を引いて部屋へ招き入れた。おずおずと歩き出した彼女の腰の帯には、珊瑚のような淡いピンク色をした杖が刺さっていた。
窓際の席に腰を下ろしたヤムライハの向かいの椅子を引き、浅く腰を落ち着けた。手持無沙汰にもらった水を一口、口に含む。乾いた喉を通り、柔らかな何かがふわりと体中に広がった気がした。
「あの、ナマエさんにはルフが見えない、のでしょう?」
つつ、とコップの表面を伝った水滴が指先を濡らす。緊張しているのか、彼女は何度も瞬きを繰り返していた。
ナマエは彼女の問いかけにゆっくりと頷き、乾いて引きつく喉にもう一口水を流しこむ。――やはり、ただの水ではないのかもしれない。仄かに、いやもっと不確かで心持ちの差なのか、ごくりと飲み込むたびに胸の奥の不快感さが薄らいでいくような気がした。
「魔法は、ナマエさんの魔法はどうやって成り立っているのか気になってしまって…!」
「……」
魔法、ですか?
てっきり元いた世界の事などを問い質されるのだろうと思っていた彼女にとってその発言は想像の斜め上をゆき、思わず頓狂な声を上げた。先程までの張りつめたような戸惑いを含む双眸が今や好奇に満ちた瞳で揺らぎ、眼前で組んだ指はきゅうときつく握られている。頬を僅かに紅潮させるヤムライハは、生唾を飲み込むと一気にまくし立てた。
「私たち魔導士はルフに語り掛けることによって成立します、命令式を与え具現化させることによって魔法となるのにあなたの場合それらの過程を丸投げして魔法を成り立たせているわ!」
「あ、あの――」
「私たちが知らない、見えない何かルフの代わりとなる媒体や、その魔導器なんていうのもとても興味があって一度是非見せてもらいたいの、あとあなたは治癒魔法のほかに火の魔法も使うのでしょう? やっぱり他の魔法も使うことができるの!?」
身を乗り出し言葉を挟む隙を与えずに言い切ったヤムライハは、はっと我に返ると目元を赤らめておずおずと席に座りなおした。ごめんなさいと先程の勢いはどこへやら小さくなった彼女の声に、ナマエはとうとう耐えることができなくなって吹き出した。
「…っ、あはは! ご、ごめんなさ…っくく」
ぷくくと口元を押さえれば尚更笑いがこみあげてきて、声を上げて笑った。久しぶりに大笑いした所為か目元に溜まった涙を指で拭い、耳元まで赤く染めて俯いたヤムライハに向き直る。
「すみません、やっぱりどこの魔導士も研究好きなんですね。私の仲間にも一人、魔術の事になると楽しそうに話す女の子がいて、ですから、つい」
彼女――リタはたったの十五の少女だった。周りからは天才魔導師と呼ばれ、彼女はとても魔導器を大切にしてそのこととなると普段とは想像がつかないほどに熱くなってしまうのだ。ヤムライハとは年齢こそ違うものの懐かしい面影を見つけ、咄嗟に笑うことで本音を飲み込む。仕舞い込んだ声に、気づきたくはなかった。
「本当に魔術はちょこっと齧ってるだけで、根本的なことしか分からないんです。私の知識だけでヤムライハ様のお役にたてるかどうか怪しいですが、私などでよければ」
にこりと笑えばつられて彼女も微笑んだ。それから少し考えるように視線を逸らし、翡翠色の瞳を細める。
「ヤムライハ様なんてやめてください、あの剣術バカも呼び捨てなんですから」
「それなら私なんかに敬語は使わないでください。ただの侍女ですから」
「それじゃあ私だって敬語なんて堅苦しいもの、いらないわ! 地位も身分もそんなの関係ないじゃない」
力強く笑ったヤムライハはナマエの手を握りしめる。コップに反射する太陽の光が眩しくて、目を細めた。この国は、どこも眩しかった。まっすぐに見つめられないほどに痛くて、切なさに首をもたげるたびに明るく笑う人がいる。
「…ありがとう、ヤムライハ」
ほんのか細い糸がつながりあって、確かな温度を残していくのだ。ゆっくりと、ゆっくりと。目には見えず触れることもできないけれど、じわりと滲み広がっていく。
少しだけ震えていたヤムライハの両手が、酷く愛おしかった。
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