元いた世界について何か断片の一つでも口にしてしまえば、崩れていきそうで怖かった。それはおそらく無意識のうちの自己防衛で、吐き出した息の合間で漏れる青い声に耳を塞いでいた。呼吸は確かに、しやすくはなったけれど。まだあともう少し、足りない。まだ少しだけ、苦しい。


「――魔法については私が個人的に聞きたかっただけなんだけど、王様が文官か武官としてこの国で働かないかって」


耳慣れない単語に目をぱちくりとさせていれば、ヤムライハは腕を組み頬に手を当てた。


「んー、文官はジャーファルさんが管轄していて、この国の内政に関わる仕事をしているわ。武官はドラコーンさんが隊長で、国の有事の際に前線に立っているかしら。王宮を歩いていればわかるけど、日中は見廻りもしてるわね」
「内政って、」
「きっと書簡整理やら複製やらだと思うけど、ってその前に文字は読めるの?」
「あ」


彼女の言葉にがたりと席を立ち、ロゼが残していった書置きを手に取る。すっかり忘れていた。もしこの数字が集合時間を表していたとすれば、サボりになってしまう。
テーブルに紙片を置いて彼女の手元へと滑らせる。ヤムライハはそれを摘み上げ、ナマエを見た。


「数字は分かるんだけど文字は読めないみたいで…ロゼさんが書置きしてくれたみたい」
「…ふふ、数字は今日の日付で、ここは『今日は起きても一日ゆっくり休みなさい』だって」


はい、と返された書置きを食い入るように見つめてみる。お世辞にも形の整っているとは言えない――もしかしたら元々そういう字形なのかもしれないけれど――文字の羅列が、目に沁みた。ああ、まだ迷惑しか、かけていない。それなのに彼女はきっと大きな笑顔を浮かべながら、背中を叩いてくれるのだろう。
ヤムライハが一瞬口を噤んでから、小さく笑いながら呟いた。


「ロゼさん、最初は文官として働いてたって聞いたわ。だからジャーファルさんも彼女に頼んだのね」
「…すごく、よくしてくれるんです。早く仕事に戻らないと」


指で挟んだ紙が風になびく。微かにインクのにおいが鼻についた。
ヤムライハは眉尻を下げて、笑った。


「その前に体調治さないとね。――それじゃあきっと侍女と武官の掛け持ちかしら。門番や王宮内の見廻りは確か経験年数だったから、中央市や船着き場での警備とかになるかもしれないわね。私は詳しいところまで担当してないから分からないけれど、主には侍女の仕事だと思うわ」
「へえ…(武官は騎士団みたいなものなのかな、)」


昔、騎士団と呼ばれる自警組織のようなものに入団していたこともあり、武官の仕事には親近感がわいた。個人的には武官の仕事のほうが得意ではあるため、少し残念ではあるけれど。
ぼうっとそんなことを考えていれば、ヤムライハが徐に立ち上がる。


「病み上がりなのにごめんなさいね。もし気分が良ければ夕方にでも黒秤塔に来て。ドラコーンさんに会いに行きましょう」
「忙しいのにすみません、ヤム」
「いいのよ、私がしたいようにしてるだけなんだもの!」


はにかむような笑みを浮かべ立てかけていた杖を握るとゆっくりと歩き出し、彼女はドアノブに手をかけ振り返った。


「そのお水、できれば全部飲んでほしいの。ちょっとしたおまじないをかけたのよ」


ヤムライハはテーブルに置かれた水滴の滴るコップを指差し微笑むと、唇にそっと人差し指を当て「ナマエが元気になるおまじないよ」と囁いた。先程感じたあの喉元を通る優しい味は、確かに気のせいなどではなかったのだ。


「ありがとう、」


呟いた言葉の内、どれだけが伝わっているのかもわからないけれど。
ヤムライハが目元を仄かに赤らめて微笑んだ。それだけで、あの苦さが柔らかくなっていくような気がした。
ありがとうと、きっとまだ伝え足りない。


「それじゃあ、ゆっくり休むのよ。明日から仕事始まるんだから」
「お言葉に甘えて、今日は休ませてもらいます」
「ふふ、またあとでね」


キイと蝶番が軋む。ナマエは手を振る彼女につられて振り返した。一瞬ドアの向こうを見たヤムライハの表情が固まった様な気もしたけれど、次にすぐ笑顔になったのでとくに気に留めず見送った。
パタンと静かに閉まったドアに息を吐く。もう一度テーブルのほうへ戻り、細やかな細工の施されたコップに唇をあて傾けた。渇いた喉を通ってはふわりと広がる彼女の優しさが沁みる。シンドリアの太陽は相変わらず眩しかった。


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