空が深い茜色に染まるたび、足元に落ちる影は細長くのびていった。
「いつもあんな暗いところで本を読んで?」
「ええ、あそこは私の研究室も兼ねているし、ランプだって無尽蔵に灯せるわけではないから」
黒秤塔にいると言ったヤムライハを探せば、彼女はその奥にある自身の研究室にこもっていた。壁の至る所に魔法陣の描かれた紙が貼られ、巻子本が散らばり、あれでは何かあったときに逃げようがないのではないかと心配になるほどの状態だった。本人にそのほうがいいのだと言われてしまえば口の出しようもないが、もう少し整理したほうが効率も上がるのではないだろうかと浮かんだ言葉は、そっと胸の内に仕舞っておいた。仕事について他人にとやかく言われるのはナマエ自身あまり好きではない。それは人によって受け取り方は変わるものだ。
そうなんだ、と返事を返したところで、一旦会話が途切れた。この世界は油や蝋燭があって初めて灯りを得られる。エアルの供給だけで灯せる光照魔導器(ルクスブラスティア)があれば、そんな面倒もないのにと考えたところで、足を止めた。
「…ナマエ、どうしたの?」
「……ううん、」
僅かに開いた差を縮めるように大股で歩く。隣で首を傾げるヤムライハにもう一度何でもないよと笑って返せば、彼女は目を細めるだけでそれ以上は何も言わなかった。
まだ二週間も経っていないのだ。早く、この世界に慣れなければ。
早く、早く。
すぐにでも忘れてしまえば。忘れてしまえば、この苦さを捨てることはできるのだろうか。
(……違う)
忘れることも、逃げることも、背を向けることも、できるはずない。そうしていいわけが、ない。
握りしめた拳を背中に回すことで、彼女の視界から逃げた。
彼女に連れられること数分、漸く見えた赤蟹塔と呼ばれる軍事施設にはちらほらと武官の姿があった。見上げれば首が疲れるほどの高い天井に思わず感嘆の声が漏れる。ほら早く、と急かす彼女の視線の先で、緑色を見た。
「彼が、シンドリア王国の将軍ドラコーンさんよ」
竜だ。確かに二本の腕、足を持ち人間と変わらない姿をしてはいるけれど、どこをどう見てもそれは竜だった。ナマエは一拍置いて生唾を呑み、それから笑顔を浮かべた。姿かたちがどんなに変わっていようと、彼が王国の将軍と呼ばれる立場にありこれから上司として敬うべき人であることに変わりはない。自身の名とともに宜しくお願いしますと頭を下げれば、腕を組んでいたドラコーンはわずかに瞼を上げておそらく小さく笑った。
「シンドバッド王から伝え聞いている。武官は皆男ばかりだが…」
「恩ある国のためならば、そのような些事気には致しません。私も一武人としてお役に立ちたいのです」
敬礼し直立すれば、ふつふつと湧き上がる騎士としての思い出にひっそりと蓋をした。
「ここは敬礼ではなく、指を組むのだ」
彼は手のひらを合わせると指を組んだ。敬礼が一般的な形式かと思っていた彼女は慌てて彼のように指を組み、頭を下げた。
「申し訳ありません、何も知らずに…」
「何も知らなければ知ればいい。それだけだろう」
はい、と返事をすれば隣で成り行きを見守っていたヤムライハが言葉を挟み、ドラコーンを連れ端へと移動してしまった。必然的に一人取り残された彼女は、振り返り鍛錬場よりも広い空間を見渡した。視界に収まることのないその部屋には、もう訓練を終えたのか武官の姿は疎らで、しかしその誰もが視線をこちらに向けていた。
――服装を、やはり考えたほうがいいのだろう。この国でナマエのような恰好をしている者はなく、ズボンのようなぴったりとしたものを履いているだけで目立っていることは知っていた。だからといって侍女たちのようなワンピースに似たひらひらとしたものは苦手であるし、何よりも動きづらい。一人ぼうっと突っ立って考えていれば、とんとんと肩を叩かれた。振り返れば、褐色の肌に白い髪が眩しいシャルルカンが立っていた。
「…シャル、ルカン様。どうしたんです?」
「いや、そこらへん歩いてた武官がお前の事噂してたからよ。なんとなく来てみた」
「もう、噂が?」
思わずこぼれた声に、彼は頷いてナマエの足先から頭までを見つめる。
「まあ、その形(なり)じゃあ目立つだろうな。女が武官ってのもいねえし」
「…そうですよね、今ちょうど考えていたところで――」
「侍女つったってお前くらいしかこれ、着てねえしな。そのうちジャーファルさんからもらえるんじゃねえ?」
侍女や文官、そして彼らが着ている袖口の広い襟を合わせて帯で締めるような官服は、仕事を始めた当初既に渡されてはいた。ただ身の振り方がきちんと決まるまでという言い訳とこの曖昧な現状に甘んじて、その官服を着ることを拒んでいた。けれど、こうして徐々に国での役割が決められていくのだから、もう駄々をこねてはいられないだろう。
「もう頂いてはいます。ただ甘えていただけなんです」
「…まあ、その辺の詳しい事情はよく知らねえけど。とにかく、頑張れよ。また稽古しようぜ」
じゃあなと去って行った彼は本当にふらりと立ち寄っただけのようで、角を曲がって見えなくなったその背に笑みを零しぽつりと呟いた。
「ナマエ、ごめんなさい。お待たせ」
苦笑いを浮かべるヤムライハにいいえと首を横に振る。明日のことについて三人で話し合っているうちに、橙は消え失せ足元は暗くなっていった。廊下から漏れるランプの明かりが、ぼやぼやと揺らいでいた。
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