女性特有の高い楽しげな声にまじって、シンドバッドの笑い声が聞こえた。辺りを見回せば既に酔いつぶれた文官や武官もいるようで、彼らは皆顔を真っ赤にさせてテーブルに突っ伏して寝ている。漂う甘い果実の匂いや酒の匂いのせいで少し渇いた喉に、生唾を流し込んだ。
「次は私をお膝に乗せてくださいな!」
楽しそうな声がしているなあなどと思えば、シンドバッドが数人の女性と戯れていた。しかもうち女性二人を両膝に乗せていて、それを見たアリババの「うわあ」といった微妙な声を聞いた。確かに彼は誰もが好意を持ちそうな見た目をしてはいるけれど、本人もまた女好きであったとは。思わず赤くなった顔を隠すように、官服の袖を口元に宛てた。袖口が広いことに感謝したのはこれが最初で最後かもしれない。
彼はアリババたちに気づくと朗らかに笑んで、八人将を呼びかけた。三人がシンドバッドの正面の長椅子に腰を下ろしたのを眺めていれば、ふいに彼が名を呼んだ。
「ナマエ、よかった。君も探していたんだ」
「私、ですか?」
彼は名残惜しそうに女性を膝から降ろし、少し離れたナマエと向き合う。金に近い瞳が真っ直ぐに向けられ、小さく身じろぎした。彼に会うのはあの大泣きした日以来である。赤子のように泣きじゃくった挙句に眠ってしまうなんて、とふつふつと蘇ってくる羞恥に唇が震えた。謝ることも感謝することもありすぎて、言いたい言葉が喉の奥で詰まっている。
何か、言葉を伝えなければと思うほどにぐちゃぐちゃと空回りし、ともかくと彼に近づいて指を組んで頭を下げた。漸く慣れたこの世界の作法が、酷く落ち着かなかった。
「シンドバッド様、」
「――祭りは楽しんでいるかな」
椅子に深く腰を掛ける彼は、膝の上で手を組んで身を乗り出すように背中を丸める。ふんわりと風に乗って香る酒の匂いに顔を上げれば、広場で燃え盛る炎に頬を赤く染めた彼がいた。あ、とどもる声を飲み込んで、にこりと笑みを浮かべる。
「はい、とても」
「そうか、それならばよかった。この謝肉宴に立ち会って喜んでくれる客人も多いんだ」
自慢げに笑うシンドバッドは、目線を逸らして国民を見下ろした。つられて眼下を覗けば、人々の笑い声は絶えず響いて大きな笑顔ばかりが目に映る。自然と頬が緩むのがわかった。こんな自分でも騎士の端くれである。ただ純粋に民の笑顔が愛おしいと思えた。
「…君の世界と、何か違うところはあったか?」
こちらを見やる彼の瞳が赤く揺らめく。息が、少しだけ詰まった。目蓋を閉じれば、遠い世界で暮らす人々の笑顔があった。
「――…結界がなくとも外界の魔物…南海生物に怯えることなく民は笑い、あんなにも広い海をたった人と風の力だけで越えてゆくことができる。この世界の人はみな強かで、とても眩しいです」
それでも、と続ける言葉を一度だけ飲み込む。首から提げたペンダントを服の上から握りしめる。
「どこへ行っても、人の笑顔は変わらないものですね」
柔らかく目を細めた彼と目が合った。夜のような濃い紫の髪が微風に靡き、左耳のそれが微かに揺れる。
――もしかしたら、無意識にでも違う世界の共通点を探していたのかもしれない。それとも反対に諦められるように異なった点ばかり目で追っていたのかもしれない。どちらにしても、頭の中で広がるのは記憶の比較だった。彼女にとってはどちらも現実でありそこで息をしていることに違いはない。
心臓が、ほんの小さな声を上げたような気がした。
「ナマエ」
呼び声に振り返ればそこにはヤムライハがいた。シンドバッドに頭を下げて彼女の元へ行けば、炎の所為だけではない頬の赤さに目が行く。傍にいたシャルルカンとマスルールが、つられて彼女の名を呼んだ。
「お、ナマエじゃねえか。てっきり警備してんのかと思ってたぜ」
「ふふ、今回は運が良かったみたいですよ」
二人きり、もしくはヤムライハとの三人ではなかったので敬語で受け答えをすれば、シャルルカンは恐らく酒の入っているであろう杯を一口煽ってから隣に立つマスルールを横目見た。彼よりも背の高い赤い髪の彼は、とくに興味もなさそうな顔をぶら下げてナマエを見下ろしている。彼女は瞬きを一つしてから、指を組んで頭を下げた。
「お久しぶりです、あの時はご迷惑をおかけしました」
「…いや、別に」
「武官と侍女のお仕事をさせて頂いています、ナマエと申します。どうぞ宜しくお願いします」
にこりと笑うと彼はぴくと片眉を動かした。やはり、モルジアナとよく似ている。もしかしたら兄妹なのだろうかなどと考えていれば、彼は項に手をやりながらぶっきらぼうに言った。
「俺に敬語とか使わなくていいっすよ、」
先輩にも使ってないのなら、と続けたマスルールに思わず口を噤む。先輩とは言わずもがなシャルルカンのことであろうが、成程彼の後輩らしい。面倒くさいとぽつりと最後に零した言葉が、きっと本音なのだろう。小さく吹き出した声に、彼は逸らしていた視線をちらとこちらに向けた。
「えっと、それではお言葉に甘えて――」
「何々、みんな集まって何してるのー?」
「あら、ピスティ」
ヤムライハの背後からひょっこりと顔を出した金髪が眩しい少女――どうやらピスティと言うらしい――は、なかなかに大胆なスリットの入った服を揺らめかせて、かわいらしげに首を傾げながらナマエを見上げる。お昼にアバレウツボが果樹園を襲ったとき、彼女もまた八人将と呼ばれた顔ぶれの中に並んでいた。こんなに年端のいかない少女が、と浮いた言葉に頭を振る。年齢も性別も、そんなものは関係ない。どの組織でも必要なのは明確な意思だけのはずだ。
ピスティはあ、と声を上げて彼女に笑いかけた。
「もしかしなくともナマエさんだ!」
「は、はい。ナマエと申します…?」
名前を知られていることに少し驚いて、それもそうかと納得する。シンドバッド直属の部下である八人将が、自分でいうのも難だがこの奇妙な人間の事情を把握していないはずがない。
「私はピスティ、よろしくね!」
「はい、よろしくお願いします」
指を組んでいた手を攫われてぎゅうと小さな手が重なる。「いいよそんなの、敬語なんて!」とやはりみな同じように告げて笑うのだ。
「ナマエも折角の謝肉宴なんだから、モルジアナちゃんみたいなの着ればいいのに」
「ああいったものは得意じゃなくて、」
「あら、似合うものを最初から着ないのは勿体ないわ」
モルジアナが着ている服、というのはもはやあれはとりあえず布を宛がっただけというかなんというか。へそ出し肩出しから始まり、あの布の薄さは着ている者に一体何を求めているというのだ。ナマエはピスティの言葉に頬を引き攣らせながら首を横に振った。
「似合うものって…それならヤムライハが着たほうが絶対似合うと思うよ?」
「やめとけやめとけ、こんな化粧もへったくれもねえ魔法ヲタクが着たところで何にもなんねえよ。つかほんと隠せよ……」
「ただの剣術バカに言われたくないのよ。あんたこそその鎖じゃらじゃらさせるのやめたら?」
お腹にどうやら拘っているようだがそれはお国柄ということだろうかと口を開けばナマエを挟んで両隣でいつもの口喧嘩が勃発し、どうしたものかと乾いた笑みがもれる。我関せずといったふうに酒を煽るマスルールは、シンドバッドに呼ばれて向こうに行ってしまった。最後の頼みのピスティはけらけらと楽しげに笑っている始末で、繰り広げられる罵詈雑言に知らず知らずに溜息を吐いた。
「ナマエお前はどっちの味方なんだ!」
「何言ってるのよ、図々しい! ナマエ、もういいわ向こうで一緒に呑みましょう!」
「…二人とも――」
うるさい!
左手をすっと持ち上げれば、どこからともなく飛び出したピコハンが、シャルルカンの頭を軽快な音をたてて叩いた。ぐふえと情けない声を上げてしゃがみこんだ彼に、ピスティの笑い声がなおさらよく響いた。
「人を挟んで喧嘩しないで」
「だ、だからっててめ…なんで俺だけ…!」
「だってヤムのボルグ堅いもの」
魔導師にはみなボルグと呼ばれる身を守るための結界のようなものがあるらしく、たかだかピコハンでは彼女の強固なボルグは破れない。たいていの物理攻撃を防ぐというのだから、なんて便利な結界なんだろう。あちらの世界で魔術を使うには相手から距離を取って、素早く詠唱しなければならないというのに。
静かになった周りの声に息を吐き――といっても未だにピスティはヤムライハの隣で笑っているのだから余程ツボが浅いのだろうか――左肩に触れる。あんな露出の高い服を着たら、きっとこの傷は目立ってしまうのだろう。遠い昔に受けた傷は、いまもじんわりと沁みるような痛みを伴いそこに居座っている。
「ナマエ?」
「…なんでもないよ、ヤム」
はい、と差し出された杯を受け取り、こつんとヤムライハとピスティのそれと突き合わせる。自然とこぼれた笑い声に合わせて、乾杯と言葉を重ねた。
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