夜も更け、広場の炎もすっかり小さくなってしまっていた。あれだけたくさんの料理も今は空のお皿ばかりが目立ち、華やかに踊り花を配っていた女性たちも今はみな片づけに追われていた。
久しぶりに呑んだ酒に少し火照った頬を冷ましたいと、一人ヤムライハたちから離れて散歩をしていた。生温い風が髪を攫い、木々の爆ぜるにおいに目を細める。もうすぐ、謝肉宴もお開きとなるだろう。旦那か恋人かはたまた見知らぬ誰かか、皿を抱えた女性がテーブルに突っ伏して出来上がった男の頭を引っ叩いている姿に思わず吹き出した。眠気眼をこすり母親に抱かれる子供の横を通り過ぎ、いつの間にか王宮から随分と離れてしまっていた。


「…海、」


緩やかな坂の向こうで、静かに波打つそれはあまりに遠いような気がした。あたりの喧騒がゆっくりと遠退いて、足は自然と歩みを早める。何故だかどうしようもなく、海に焦がれた。
ふらりと進んだ一歩を引き留めるように、何かと正面からぶつかった。


「っ」


そこではっと我に帰れば、目の前で木製のお皿を取りこぼす年老いた女性が座り込んでいた。あいたたた、と腰をさする彼女に先程の衝撃は彼女とぶつかったからなのだと気づいて急いでしゃがみこみファーストエイドと呟いた。


「ごめんなさいよそ見をしていて…! 何かほかに痛む場所はありますか?」


淡い光が消え去ったところで、彼女が大きく目を見開いてナマエを見ていることに気が付いた。目を瞬かせることもなく、数秒か数分か、ただ無言で見つめられる。あの、と耐え切れずに声を上げれば、漸く彼女は動き出して温かな微笑を浮かべた。


「すまないねえ…死んだ娘に似てたもんだから、つい」


皺だらけで節くれた指が皿を集めはじめる。その手に重ねるように散らばった皿を彼女も集め、よいしょと掛け声とともに立ち上がる彼女の腰に手を添えた。ナマエの胸ほどの背丈をした女性は、白髪ばかりの髪を耳にかけて見上げる。


「ありがとう、あんたの魔法のおかげで腰痛がすっかり良くなったよ」
「そんな、すみませんでした。お皿、私運びますよ」
「あら、いいのかい。それじゃあお願いするよ」


そこのテーブルまで、と指を指した彼女と短い距離を歩きながら、とても長い会話をしたような気になった。死んだ娘の話をする彼女は、その姿をナマエの向こう側で思い出すかのように目を細めてぽつりと言葉を零している。よく笑う子だったねえと優しげな声音で呟いたものだから、名も顔も知らないのに胸が少しだけ痛んだ。


「ここで大丈夫よ、ありがとう」
「いいえ、他に何かお手伝いできることは?」
「ここらへんは若い子が全部やってくれるのさ、それより、あんたは急いでいたんじゃないのかい?」


建物を出たり入ったりと繰り返す若い女性に皿を渡し、彼女は椅子に腰かけてナマエを再び見上げる。ふうと息を吐く女性の笑みが、懐かしく思えた。


「私は、散歩をしていただけですから」


そうなのかい、と笑った彼女に笑い返し、一言二言会話を交えて頭を下げる。そろそろ戻らなければジャーファルから何か言われそうだ。少しだけ名残惜しそうに顔を歪める女性に眉を下げれば、彼女はごそごそと懐を漁り始めて何かを突き出した。握りしめられた指から現れたのは、銀の細やかな細工の施された輪に深い赤色の小さな楕円の石が埋め込まれた髪留めだった。


「こんなものしか持ち合わせていないのだけれど、よかったらもらってやっておくれ」
「え、いえそんないただけませんっ。元はといえば私がよそ見をしていたせいですし…!」
「老いた婆の我儘だと思って、どうかもらっておくれよ」


ほらと無理やり掴まれた手のなかにそれを落とし、彼女はひどく満足げに笑った。


「…有難うございます。大切に使わせていただきます」
「ああ、優しいあなたに、ルフの加護があらんことを」


ふふふと笑んだ彼女の元を離れて、王宮へと向かう足を速める。手の中に納まる髪留めは少し重くて温かかった。


「ナマエさん」
「マ、マスルールさん、!」


徐々に疎らになりつつある広場で、目立つ赤い髪をした彼がこちらを見て名を呼んだ。勝手に抜け出して――といってもヤムライハとピスティには一言残したけれど――もしかしたら怒られてしまうだろうか。侍女や武官の仕事を与えられているとはいえ、やはりいまだ危うい立場であることに変わりはない。
どきりとした心臓を押さえて、心なしさがった眉尻のままマスルールを見上げる。彼は全く読めない無表情を顔面に張り付けて、彼女を見下ろした。


「先輩が」
「シャルが?」
「探して来いって」


項に手をやる彼は元来無口な人なのだろう。言葉を区切って話す彼は気だるげな視線を彼女に送り、それから踵を返して歩き始める。少し距離が開いたところで、彼女はその背中を小走りで追いかけた。


「ご、ごめんなさいご迷惑を」


おかけしまして、と続けようとした言葉は彼の面倒そうな視線におされて喉の奥に引っ込んだ。


「…謝肉宴の後は、酔払いが増えるんで一人で歩き回るのはやめといたほうがいいっすよ」
「え?」


すたすたと変わらず歩き続けるマスルールの言葉に目をぱちくりとさせてから、それからゆっくりと彼の声をかみ砕く。これは、単純な優しさと受け取ってもいいのだろうか。少しだけ緩みそうになる頬のまま有難うございますと笑えば、彼は無表情を決め込んでちらりと振り返った。もしかしたら、あの無表情は嫌悪からくるものではないのかもしれない。これだけ都合のいい解釈ができるとは、どうやら彼女も少なからず酔っぱらっているようだ。


「マスルールさん」
「? なんすか」
「モルジアナとは兄妹なんですか?」
「…いや、全然」


彼はゆるく首を振り、素足で砂利を踏みつけていく。たった一言ずつの短い会話で、それからヤムライハたちのいる場所まで沈黙が続いてはいたけれど、不思議と重苦しくはなかった。
パチンと煤けた木が組んだ櫓の中でボロボロと崩れていく。炎の明るさは消え失せ、星空と等間隔に置かれたランプの明るさが足元を照らしている。握りしめていた手を解き、髪留めを夜の空に掲げれば、赤い石が僅かに月光を飲み込んた。


(…暗い色)


吸い込まれていくような、突き放されているような。細やかな銀の細工の中心で輝く石は、まるで何かを呼んでいるような。そんな、気がした。


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