脂汗の這う首筋を冷たい手拭いで拭い取る。酷く渇いた喉に水を流し込んで、白んでいく空を眺めながら寝間着を脱ぎ捨てた。チェストの上に置かれたボロボロの髪紐に手を伸ばしかけて、隣の銀の髪留めを見る。銀の細工の縁を這うように、朝の光が零れ落ちた。
ちらほらと疎らに見える官吏たちを横目見ながら、銀蠍塔への階段を気持ち早足で上がっていく。屋上に備え付けられたその鍛錬場にいる食客たち数人の姿を見やりながら、空いている一番奥の空間に歩みを進めた。柔らかくも鋭い朝焼けに目を細めながら軽いストレッチをしていると、足音が一つ近づいてくるのがわかったのでくるりと振り返った。
「おはようございます、アルさん」
「おはようナマエさん」
いつもの武官の恰好よりは少しばかり軽装をした同じ隊の隊員であるアルサスは、愛用の自身の槍のほかにもう一本の訓練用のそれと片手剣一つを手に眠そうな様子も見せずに現れた。
――日中は侍女としての仕事をこなすナマエにとって彼らと共に鍛錬に励む時間はなく、その代わりに昨日より始めたのは早朝の稽古というものだった。
「今日もよろしくお願いします」
「いえいえこちらこそ。今日は武器を変えてみようと思って槍を持ってきてみました! ナマエさん経験は?」
「少しだけ」
「それなら今日はこっちで。違うものの扱いにも慣れないとですからね」
はいどうぞと渡された槍は見た目より少し重く柄も比較的太かった。騎士団団員であった頃にはよく扱っていたものも同じように大量生産型であったけれど、あちらでは女性騎士もいたために同じ型の槍でも数種類程用意されてはいたのだが、こちらでは殆どすべてが同じ形のもののようだ。くるりと一回転させて振り回してみる。そうはいってもやはり国の武器でしっかりしているから、すぐにこの手に馴染むだろう。
「…他には何が扱えるんですか?」
「――いえ、あとは……弓、くらいです」
「へえ、器用なんですねえ。自警団か何か入ってたんです? ナマエさん実は貴族出身だったり?」
好奇心のまま屈託のない笑みを向けて問うてくるので、どうしても微苦笑ばかりを浮かべてしまった。喉の奥で厳重に仕舞い込まれていた苦味が顔を出す。
首を傾げる彼に緩く首を振り、腰に提げていた剣の柄を撫でた。
「自警団というより、ここの武官の隊編成と同じような組織に入っていたことは。もう五年ほど前の話ですが…」
「そうなんですか、それならいっそ武官の仕事に専念した方がいいんじゃないですか?」
そうですね考えてみます、と曖昧な返事をして世間話を二三織り交ぜた後、槍を使っての手合わせを始めた。海の向こうより生まれた太陽が切り立った崖を越えた頃には、もう港近くがにぎわい始めていた。
単調な日常である。向こうにいた頃は仲間と共に世界をわたり、厄介ごとに巻き込まれては少しずつ前に進んでいた。毎日魔物と相対し剣を振り回していた日々に比べ今はこんなにもある意味穏やかである。それがいいのか悪いのかという点は一概には言えないのでこの際置いておきたいところではあるけれど、どちらが性に合ってるかと言われれば――いや、即答はできないかもしれない。
柔らかなベッドに埋もれながら、ただぼうっと天井を見つめていた。もう日付は変わった頃であろうか、それでも目を瞑り眠る気は毛頭はなく、とりとめのないことばかりを考えていた。
ふいに左手を眼前にかざす。月明かりに照らされる指の付け根にある肉刺をみるたび、安堵と不安に駆られた。"これから先"をどうすればいいのか、全く以てわからなかった。一度経験した死と完全なる異世界が、恐らく頭の中心から現実味と希望を奪っていってしまったのだろう。
帰りたい、とは思えない。この身は一度あの世界で死んだのだから。そう考えればこの世界は一体なんなのだろうか。もう一度、ここで生きろとでも告げているのか。
「……」
徐に身を起こし、足音を立てぬよう部屋を出ていく。ただ悶々と考えているよりは、外の空気でも吸って歩き回った方がずっといい。適当に髪を縛るもの、と手に取った銀の髪留めで歩きながら後ろで一つにまとめた。少しだけ、心臓の奥が何か生ぬるいものに馴染んだような気がした。
青白い廊下をあてもなく彷徨う。緑射塔の中身は大凡覚えたので人気の多そうな場所を選んで――といってもこの時間なので人がいるわけもないが――歩き回っていた。そんな時、部屋からそう離れていない場所で、人影を見た。
「…あまり夜遅くに出歩くものではないですよ」
ナマエの足音に気づいて振り返った彼は、少しだけ眉をひそめてそう告げた。
「…近頃暑いもので」
「その割には涼しげな顔をされているようですが」
「よく言われます」
僅かに歪んだ笑みを浮かべたものの、彼の場所からでは薄暗くてよくは見えないだろう。それきりどちらも声を出さずに沈黙ばかりが広がった。岩に波を打ち付ける音が遠く聞こえる。それに紛れて彼の息を吐く音が聞こえた。
「…あまり顔色が優れないようですね」
「――今日の月明かりは青いですから。それに、ジャーファルさんのほうがよっぽど倒れてしまいそうですよ」
「昼間の話ですよ」
ぴくりと瞼が動く。その理由がすぐに思い浮かんでしまったせいで、無意識に下唇を噛んだ。それこそが、今彼女が眠れない原因でもあったのだから。
ジャーファルに気づかれないように息を細く吐き、小さく笑った。
「…二度目ですね」
何がです、と言葉もなくそんな視線を向けられ、瞬きを一つする。
「私がここではない世界の事を思い出すたびに、貴方に会うのは…なんででしょうね」
死んだほうが良かったねと泣きわめく声に連れられて歩いた夜に、世界の違いを自覚した。今は、何に手を引かれてきたのだろうか。
彼はあの日と同じようにやはり手すりに右手を添えて、しかしナマエを真っ直ぐに見つめていた。決して柔らかとは言い難い視線から目を逸らす。腹の奥底を見定められているような、見透かされそうなあの目には、まだ慣れそうにない。
「…蒼白くなるほどの思い出ですか」
「当時は、です。もう大丈夫なんです――でも、色濃い脚色ばかりが付け足されているのが夢ですから」
「だから、寝られないと」
そういうことです、と眉尻を下げて微苦笑を浮かべれば、ジャーファルはすっと目を細めて両手を袖の中に突っ込んで胸の前に置いた。
「…それが悪夢だというのであれば、ヤムライハの許へ行けばきっと解決してくれますよ。彼女の魔法はよく効きますから」
「そんなこともできるんですね」
「あなたも魔法が使えるのに?」
「私の魔術はみなさんのいう魔法とは違います。魔物…南海生物のようなものと戦えるような攻撃性のあるものと、傷を癒せる治癒の力くらいです」
そうして、世界の違いを一つ知る。彼はこの虚しさを、分かったうえでそんな質問を繰り返すのだろうか。
そうなんですか、と珍しくそこで問いかけが終わった。それ以上世界を問うことをしないジャーファルは唇を結んだまま、王宮の外を見やっている。その横顔に、先程言いかけた言葉を思い出した。
「――あと、確かに心地の良い夢ではありませんが、悪夢ではありません」
「…目の下に薄っすらと隈がありますよ」
「ふふ、眠れないからといって、悪夢とは限らないでしょう? 私にとって、今はそれがただ苦しいだけじゃない。それが、今の私に繋がっているのですから、その過去を否定したくはありません。そう、ちゃんと思えるようになりましたから」
言葉を詰まらせた彼は瞬きを何度もしていた。
あの頃はただ悲しく辛いと思ってばかりでちっとも前になど進めなかったけれど、時を重ねていろいろな世界を知り思いを知り考え方を知り、そうして自分の頭で考えたことで少しずつ変わっていった。それが答えなのかも、彼らに対するせめてもの希望になれるのかも分からないが、それでも彼女が彼女らしくいられることにはただの過去の記憶としてないがしろにされているわけではないと思えた。
「時間が経って、漸く受け止められたんです。何年も前の事なのに、漸く、です」
思い出せば苦さを覚えるけれど、飲み下せる。吐き出すことばかりを考えていた頃に比べれば、ずっとずっと楽だった。
ジャーファルは微かに眉を寄せて苦い顔をしていた。
誰にでも、忘れてしまいたくなるほどの記憶はある。嫌な思いや悲しい思いや切ない、遣る瀬無い思いや、そういった行き場のない苦い記憶のやり場に困り、捨ててしまいたいと叫んでしまうほどの。そして、きっとその人の想いの数だけ、その記憶の形は変わっていくのだろう。本当に忘れてしまうことがいいのか悪いのか、それに恐らく答えなどないのだから。
時が経てば、振り返るだけになってしまうけれど。どうしてかそういったものはいつまでも薄い瘡蓋のままで容易に剥がれ落ちてしまう。
「…そう思わせてくれるような人たちに、出逢えたから。それも含めて、悪夢になんかしません」
だというのに。そんな世界に、もう、戻れないのかと呟いてしまった声がやけに響いたような気がした。
「――強いですね」
「強がるのは得意ですよ」
ふふと冗談交じりに返せば彼は小さく笑った。
もし彼の言うように強いのであれば、今頃心も揺らがずに前へ突き進むことができているのだろう。差異の大小に左右されない心を強さというのであれば、それは確かに無敵なのかも知れない。
「早く、帰れるといいですね」
「……はい、ありがとうございます」
とくりと心臓が嗤う。――月夜が眩しくなくてよかった。ぐしゃぐしゃになりそうな顔など、ジャーファルには恐らく見透かされてしまうだろうから。
「すみません、だらだらと私の話を聞いていただいて」
「いえ、貴女の気が晴れるのであればいくらでも」
それでは、お休みなさい。
にこりと笑って、彼女が踵を返すのを待つ彼に頭を下げて、振り返る。耳を通り抜ける足音の頼りなさに目を伏せた。
早く、早く、朝になればいい。あの突き抜けるほどの青い空に、焦がれてやまないのだ。この仄暗い月に取り込まれてしまいそうで、唯一の灯火さえ隠されてしまいそうで。記憶の片隅で笑い声を追いかけた。微かな明かりを、追いかけた。
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